特許法の体系別の解説書である。著者は知的財産法の分野において長らく第一人者とされており、また、前身の「工業所有権法(上)特許法」から数えると第6版に相当する改訂が重ねられていることからすると、基本書であるかはさておき、現在の有力書の1つであることは疑いない。ただし、かつての基本書である吉藤幸朔著「特許法概説」(有斐閣)が実務色の強いものであったのに対して、本書は学術色が強いので、特許法概説に慣れ親しんだ者にとってはやや馴染みにくいかも知れない。なお、著者は特許法の貴重なコンメンタール(逐条解説書)である「注解特許法」や「新・注解特許法」(いずれも青林書院)の編者でもあるが、こちらはかなりの高額(分冊されたもの全巻で数万円)であるため、関心はあるが購入するには至っていない。以下、気になった記述を抜粋して寸評し、最後に総評を述べる。 職務発明に関して(その1)「特許制度は発明奨励のためのものである。そして職務発明制度の核心は、発明から生ずる権利や利益を、使用者と従業者との間で、どのように分配するのが発明奨励にとって最も効率的かつ衡平にかなっているかという点にある。すなわち発明者である従業者に発明のインセンティヴを増大させるとともに、その発明につきリスクを取って実用化するのは使用者であるので、使用者のインセンティヴの増大も図らねばならない。この両者のインセンティヴをバランスよく制度設計し、あるいは法解釈をしなければ産業の発達に資することにならない」(54頁)、「発明者たる従業者は、企業から給料や研究施設を始め種々の便益を受けており、また発明が失敗したとしても解雇や損害賠償を求められるリスクを負わないのに対し、使用者は発明への投資が無駄になるかもしれないというリスクを負っている。使用者がそのようなリスクを取らない限り、発明のための投資が行われず、結果的に良い発明はなされないし、また仮に優秀な発明がなされたとしても実施化されにくいことになる。・・・・また企業の利益は発明者だけの功績ではなく、発明とは関係のない営業等の部署の従業者に負うところも大であるが、彼らはいかに売り上げを伸ばしたとしても35条のような利益(平成27年改正までは対価)は、法的には保証されていない。・・・・従業者の間に不公平感・不満が生じたのでは、企業全体としては非効率になりかねず、職務発明の問題とは、このような諸般の事情のすべてを勘案して解を導かなければならない難問である」(57頁) 対価の認容額604億円(発明者の貢献度が50%とされたことが主な原因となって、このような莫大な金額になった)が社会に衝撃を与えた平成16年の窒素化合物半導体結晶膜の成長方法(青色発光ダイオード)事件の東京地裁の判決(翌年に東京高裁で和解)を契機として(退職した元エンジニアが対価の不足分の支払いを求める)職務発明対価請求訴訟が続発することになり、それを憂慮した産業界の強い要望によって同年に35条は速攻で改正された(経過措置によって遡及適用まではされない)わけであるが、使用者に有利な、従業者にとっては残念な改正となった。そして、平成27年に更なる改正がされ、新設された指針の公表によって、それはより確たるものになった。しかし、本書の上記の記述の通り、使用者は職務発明に関する金銭的なリスクのすべてを負っていることにあらためて思いを至らせると、どちらかと言えば従業者よりも使用者を多く利する必要があること(ハイリスク・ハイリターンの原則)は十分に理解できるのである(本書の別の箇所においては、同判決にはこのような視点が欠落している旨が指摘されている)。なお、「発明とは関係のない営業等の部署の従業者」の貢献については、使用者の貢献としてカウントされるので、その分増えた使用者の取り分から(使用者が任意に)配分すれば衡平となる。 職務発明に関して(その2)「平成16年改正法では、勤務規則等で対価について定める場合には、その基準の制定に際し、使用者と従業者との間の協議の状況、基準の開示の状況、額の算定について行われる従業者からの意見聴取の状況等を考慮して、その定めたところにより対価の額を支払うことが不合理なものであってはならないとされているが・・・・、個々の発明者との個別的な協議等まで求めるものではない。対価の定めとそれに基づく具体的算定が不合理でない場合には、その額が正当な対価であるという一応の推定を受けることになる。・・・・手続の合理性判断の考慮要素としては、『協議』『開示』『意見聴取』等が列挙されているが、現実に支払われた対価の額等の実体的要素は考慮要素としては列挙されていない。しかし解釈論としては、それらは『等』という語句に読み込むべきであるが、あえて『等』の中に読み込ませようとしたということは、対価の額は考慮要素の中で中心的なものではなく、補充的なものとして参酌されるという趣旨が含まれていると解される」(77頁) 本書の上記の記述によれば、不合理性の有無の判断は推定であることが理解できるが、具体的な判断方法(推定方法)の提示が欲しいところである。なお、平成27年の法改正によって公表された指針は、「協議」、「開示」、「意見聴取」の考慮方法(らしきもの)を提示したにとどまっており、また、未だ判例も乏しいため、具体的な判断方法は不明のままである。 職務発明に関して(その3)(平成27年法が)「平成16年法と異なるのは、経済産業大臣が、相当の利益を決定するための考慮すべき状況等に関する指針(ガイドライン)を定めると特許法で規程されている点である・・・・。この指針は大臣告示という非常に重い形でなされるが、法的には裁判所を拘束するものではない。しかしこの指針に従って職務発明規程を設ければ、事実上、裁判においても尊重されると推測される」(82頁) 指針の内容についての評釈がないのは残念である。ちなみに、特許庁のウェブサイトから指針を閲読した感想としては、使用者に有利な内容であると感じた。従業者が使用者に率直に意見を述べることは心理的に容易ではないので、大方の従業者は使用者からの提示を表面上は異議なしで受け入れることになると考えられるが、それ自体をもって不合理であると判断される可能性は低そうだからである。そうではあっても、使用者には、従業者に単に意見を述べる機会を与えるだけではなく、せめて相当の利益について複数の選択肢を与えて従業者が自由に選択できるような計らいをすることが望ましいように思う。 発明の定義に関して(その1)「2条1項は、発明を積極的に定義しているように見えるが、実質的には積極的な意味合いは少なく、ここでいう自然法則とは、単なる精神活動、純然たる学問上の法則、人為的な取極め等は除外されるということを意味しているにすぎないと解釈すべきである。人の純然たる精神活動自体は自然法則を利用していないので発明とはならないが、発明の構成の中に人の精神活動や人為的取極めが含まれていても、それだけで発明性が否定されるものではなく、全体から判断して自然法則が利用されていれば発明に該当する」(101頁) 自然法則(自然の作用)の利用という発明の要件は、本書の上記の記述のように、人の精神活動、純然たる学問上の法則、人為的な取決め等を単に除外するためのもの(消極的な要件)であると説明されることが多いが、もっと本質的な(発明の根幹をなす)要件であるように思う。かつてはコンピュータのプログラムについて問題となったが、平成14年の法改正によって(物の)発明であることが明文化されたので、現在では人の精神活動や人為的な取決めが構成中に含まれている場合(すなわち、自然の作用とともに人の精神的な作用も課題の解決に関与している場合)に専ら問題となっている。そして、その場合は、近年の判例によれば、「全体として」自然法則を利用するものであればよいという便法が用いられているが、その実態としては、課題が解決される本質的な原因が自然の作用にあるか否かによって決せられているように見える。そうであるならば、課題の捉え方(明細書における課題や効果の記載)によって左右されることになる。知財高裁が自然法則の利用を認めて話題となった平成30年のステーキの提供システム(いきなり!ステーキ)事件は、この点で優れていた結果であるように思う(本書の別の箇所においては、この知財高裁の判断に対して疑問が呈されているが、その理由までは言及されていない)。 発明の定義に関して(その2)「何ゆえ自然法則の利用という要件が必要なのかについては、今日ではその実質的な根拠はかつてのように明確なものではない。かつては自然法則の利用という要件を採用することにより、サイエンスとテクノロジーとを区分するという機能があったのかもしれないが、今日では両者は融合し、分離は困難な状況にある。機械や化学や電気といった19世紀の中心的産業分野においては、自然法則の利用という要件は一線を画すためのメルクマールとして機能していたであろう。しかし現在では、実質的にはコンピュータ・ソフトウェアであっても、クレームの記載方法によっては発明とされ、自然法則の利用の意義の再考を迫られている。技術的思想の創作で自然法則を利用していないものは、本当にすべて保護の必要がないのであろうか。・・・・そろそろこの自然法則の利用という要件に代わる要件を捜し求める必要が出てきているようにも考えられるが、まだこれに代わる要件を我々は持ち合わせていない。当面の間は、自然法則の利用という要件を緩やかに解釈し、社会的要請の強いものについては、特許法の中に取り込む必要があろう」(111頁) 自然法則の利用という発明の要件の意義は、必ずしも明らかではない。特許法概説によれば、「今日までに、発明を定義した学説は非常に多く、枚挙にいとまがないほどである。これらのうち、最も流布せられていた学説は、コーラーのものである。コーラーは、『発明とは、技術的に表示された人間の精神的創作であり、自然を制御し自然力を利用して一定の効果を生ぜしめるものをいう』(要約)といっている。このコーラーの定義は、大体において世界各国に共通した考え方を述べたものであり、わが国においても、おおむね妥当であるとして、あえて異論がなかったものである。現行法の定義(2条)はこれを実質上そのまま踏襲したものであるということができよう」(第13版・51頁)とあり(コーラーはドイツの学者)、この要件の起源についてはよく知られている一方で、何ゆえ自然法則の利用という要件が必要なのかについては、これまでほとんど議論がされていない。本書の上記の記述によれば、かつては明確であったとされているが、それも定かではない。サイエンスとテクノロジーを区分するという機能とは、自然法則の発見自体を発明から除外することを意味すると思われるが、技術的思想の創作という発明の要件によっても除外されるからである。近年の判例が、自然法則を「全体として」利用しないもの、すなわち、人の精神的な作用を「全体として」利用するものを発明から除外していることからすると、そのようなものを何ゆえに除外する(保護の対象から外す)必要があるのかを考えなければならないように思う。 産業上の利用可能性に関して 「産業上の利用可能性で最も問題となっているのが人体に対する医療行為である。審査基準によれば、医療行為は『産業』でないと解釈されており、人体の存在を必須の構成要件とするもの、具体的には人の手術方法、治療方法、診断方法等に関する発明は、産業上の利用可能性はないとして、特許能力が否定されている。しかしこのような医療行為については産業上の利用可能性がないという基準は、条文上の根拠がないだけではなく、常識的に考えても奇異な感は否めない。医療現場の混乱を防止するため、医療行為を特許制度から外さなければならないという大命題が存在し、その下での苦渋の解釈であろうが、そもそもその大命題についてより深い検討がなされるべきであるし、仮に医療行為を特許制度から外すことが必要であるならば、『産業上の利用可能性』の解釈でなく立法で解決するのが本筋であろう。・・・・治療の現場の混乱を防ぐという目的であるならば、必ずしも特許能力を否定するという川上での規制である必要はなく、特許能力を認めた上で医師の行為に法定実施権を設けるとか、調剤行為・・・・のように特許権の効力を制限するという川下での規制もありうる。・・・・なお治療方法の発明については人体を必須の構成要件としているため、独占権を与えることに対する漠然とした倫理的反感も存在するものと思われる。しかしこのような観点から特許能力を否定するのであれば、産業上の利用可能性の問題として扱うのではなく、端的に不特許事由として論ずるべきであろう」(124頁) 医療業は産業に含まれないと解釈して医療行為の発明(医療業においてのみ実施できる発明)は産業上の利用可能性を有しないとすることは、必ずしも奇異な感じはしない。特許法が産業の発達を目的とするのは結局は経済を成長させるためであるならば、医療業の発達は国民の生命や健康の維持に資するものであって経済の成長には(少なくとも直接的には)つながるものではないからである。そうすると、医療行為の発明を奨励することは特許法の目的外ということになり、その必要は特許法上はないことになる。 進歩性に関して 「進歩性の概念は漠然としており、それゆえ、進歩性の有無をめぐって多数の判例が存在する。この争点は、特許庁の審査あるいは特許権侵害訴訟においても重要でありかつ事件も多く、実務上は最重要課題である。しかし進歩性の判断は技術上の観点から決せられる問題であることが多く、法律の体系書としては扱いにくい問題であるため、ここでは考え方の大枠を示すに止めたい」(142頁) 発明の特許要件の1つである進歩性は、実務上の最重要課題(最大の関心事)であり、特許法の体系書を手にすると先ずその箇所に目を通すことが常となっている。そして、大抵は無難な記述に落胆するのであるが、本書でも残念ながら同様である。もちろん、進歩性について規定した29条2項の解釈は膨大な数(知的財産法において随一)の判例によって構築され尽くした感もある(令和元年の最高裁の判決も特筆する争点ではなかった)ので、自ずと似たような記述となることは避けられないのであるが、何か新たな提示が欲しいところである。余談であるが、そのようなことから、進歩性にテーマを絞った書物の中から影山光太郎著「統一的に考える進歩性とクレーム解釈」(経済産業調査会)を購入した(税別3000円)ところ、予想外に難解な内容で理解できず、早々に挫折する結果に終わった。 実施可能要件に関して 「実施可能要件とは、・・・・当該発明の属する技術分野における通常の知識を有する者(当業者)が、過度の試行錯誤や高度の実験等を行わなくとも、特許請求の範囲に記載されている発明を実施できるように記載しなければならないとされる要件である。特許は技術を公開したことへの代償として付与されるのであり、当業者が容易に実施しえないような記載では実質的意味における公開とはならず、発明内容を事実上秘密にしているに等しく、社会の技術水準の向上に貢献しないからである。ただ出願人はできるだけ広い範囲のクレームとするため可能な限り上位概念でクレームを書く傾向にあるために、明細書の記載だけではクレームに記載されたすべての範囲での実施ができない場合もあるが、クレーム全体が実施可能なように明細書を記載しなければならない。ただ現実問題としては、何処まで記載すれば足りるのか、という判断は難しいが、明細書の記載だけではなく、当業者の技術常識に基づき、容易に実施しうるか、という問題に帰着するであろう」(191頁) 特許法において当業者にとって容易であるか否かの判断を必要とするのは、進歩性のほか、均等論(第3要件)があり、さらに本書の上記の記述の通り、実施可能要件も実際にはそうである。なお、平成6年の法改正前の実施可能要件は、現行の「その実施をすることができる程度に明確かつ十分に」ではなく「容易にその実施をすることができる程度に」と規定されていた(同改正は、実体上の改正を企図したものではなく、制度の国際的調和の観点から法文上の整合性を担保したものであるとされている)。 補償金請求権に関して 「補償金請求権の行使は、特許権の行使を妨げない(65条4項)。つまり特許登録後の差止めと損害賠償請求権は、この補償金請求権を行使したことにより影響を受けず、補償金を支払っても登録後の実施が合法となるわけではない。補償金を支払うということは、出願公開から登録までの間は、ライセンスを受けていたのと同じ扱いになるという意味であり、登録後について、先使用権類似の実施権を取得するものではない。出願公開中に製造された物を登録後に使用等する行為は侵害となるのか、という点が問題となるが、補償金を支払って出願公開中に製造された物を特許登録後に使用する者の行為を侵害とすべきではない。登録前の権利には、元来第三者に対する損害賠償請求権はなく、第三者の行為は合法であるところ、法が特に補償金の請求を認めたものであり、補償金を支払う以上、出願公開から登録までの第三者の行為は法的に問題がないものとなるはずである。補償金の額は実施料相当額であり、実質的には当該期間は製造のライセンスを得ていたのと同様であって、ライセンス期間中に製造された物を、ライセンス期間終了後に使用しても、その物に関する限り、消尽理論が適用されると解釈すべきである」(230頁) 比較的マイナーな論点であるが、パテントフライの問題として論じられてきたものである。特許法概説によれば、「請求権の行使は、特許権の行使を妨げるものではない(65条3項)。すなわち、補償金請求権は、出願公開期間中の実施のみに対するもので、これを行使したからといって、上記特許権が用い尽くされたことにはならない旨を明らかにし、これに反する意見の生じないようにしたものである。たとえば、出願公開中に製造された機械がそのメーカーによって補償金が支払われたものであっても、その機械を買い受けて特許付与後使用しているユーザーに対しては、出願人は差止請求権や損害賠償請求権を行使することができるのである。ただし、立法論としては、これとは逆に、このような機械には、以後特許権の効力が及ばない(いわゆるパテントフライ(patentfrei))とすることもできる(そのようにした立法例もある)が、現行法は、補償金請求権の行使だけで差止請求権や損害賠償請求権の行使を認めないとすることは、本来受けるべき発明の保護を出願公開によって著しく弱めることを意味するので、パテントフライ論は妥当ではない、としたものである」(第13版・406頁)とあり、一方、特許法概説と同時期の有力書であった竹田和彦著「特許の知識」(ダイヤモンド社)によれば、「補償金を支払った対象物件の実施行為が、特許後どうなるかが問題になる。・・・・立法者は65条の3第3項(現65条3項)によって、出願公開中に製造、販売された商品について、その製造、販売を行った者が既に補償金を支払った場合でも、補償金請求権は出願公開から特許権の設定登録までの間の実施に対するものであるから、特許権の設定登録後その商品に特許権の効力は及ぶと解している・・・・。これは、パテントフライ(Patent frei)の問題として議論された。この見解に従うと、例えば、出願された発明がカラーテレビの受像機に関する場合、製造したメーカーが補償金を支払っていても、そのユーザーである喫茶店に対し、特許登録後の使用に関しては、差止請求や損害賠償請求をできることになるのである。しかし、この規定は、補償金請求権を行使しても特許後の相手方の実施(当該製品ではない)を是認するものではないという当然のことを、いわば念のために規定したものであると読むほうが正しいように思われるし、補償金は実施料相当額であるから特許権者の損失を賄うものと考えられる。したがって、補償金の支払いによってメーカーの公開期間中の製造、販売は正当化され、ひいてはユーザーによる当該製品の使用行為も正当化されるとみるほうが取引の安全にかなっている・・・・。したがって、上記の見解には疑問がある。結論として、特許登録後のユーザーの使用行為を差し止めたいのであれば(耐久性のある装置などの場合その必要性があろう)、メーカーから補償金をとることは避けたほうがよいのではあるまいか」(第7版・248頁)とあり、見解は分かれていた。本書の上記の記述は後者の見解に近いものであるが、「補償金を支払うということは、出願公開から登録までの間は、ライセンスを受けていたのと同じ扱いになる」との考えは疑問であり、補償金請求権はむしろ(実施料相当額の)損害賠償請求権に倣ったものであるように思う。そうすると、65条4項(旧3項)は、損害賠償請求権を行使しても差止請求権を行使できること(侵害品の販売元に対して損害賠償請求権を行使するとともに販売先に対して差止請求権を行使すること)と同様のことを実現させるための規定ということになる。 特許権の効力に関して 「現行法では、業としての実施の独占権と規定されているが、特許権を含めた知的財産権の本質は排他権にある。特許権は独占権であるのか排他権であるのか、という点をめぐって古くから論争があるが、この議論は実益のあるものとも思えない。特許権の対象は技術的情報であり、情報というものの性格からして、その本質は基本的には排他権と解すれば足りる。独占権であれば排他性が認められるし、排他権であれば独占権であることが多い」(337頁) 特許権の本質的な効力(いわば正体)は何であるかは、本来であれば大きな論点となり得るものである。しかしながら、特許権は独占権(専用権)であるか排他権(禁止権)であるかとして論じられてはきた(例えば、特許法概説によれば独占権であり、特許の知識や本書の上記の記述によれば排他権である)が、訴訟において争点となることがないためか、どちらかと言えば軽んじられてきた論点である(独占権や排他権のほか、折衷的な「排他的独占権」なる語も多用されており、余計に有耶無耶となっている感すらある)。ところで、独占権であるか排他権であるかという議論は、68条本文のみに着目したものであり、他の条文に配慮しない不十分なものである。同条ただし書との関係(専用実施権が設定された範囲において特許権は独占権や排他権ではなくなることになるが、それならば特許権はどんな状態となるのか)や、他人に実施権を与える権利を規定した77条や78条との関係(このような規定がなくても他人に実施権を与えることは可能であるのか、そのような規定があって初めて可能となるのか)にも配慮する必要がある。また、各国特許独立の原則によれば、他国の特許権に必ずしも倣う必要はない。そうすると、わが国の特許権は排他権(他人による実施を排除する権利)ではなく独占権(他人による実施は原則として違法とされ、それによって特許権者は実施を独占することになる)であり、さらに、これに加えて支配権(他人による実施を支配する権利、すなわち、特許法が認める実施権を与えることによって他人による実施を違法から適法にする権利)でもある(独占権と支配権の二本立て)と考えられるのである(特許権と効力が類似する商標権についてであるが、令和元年の商標法の改正前は、独占権は有するが支配権は有さない商標権者として国、地方公共団体、これらの機関、非営利公益団体、非営利公益事業者であって自己を表示する著名商標の商標権者が明文上で存在したことからも、独占権と支配権は別異のものであることが分かる)。このような考えに言及した例は見当たらないが、特許法概説によれば、(発明を保護する手段として)「独占権が設定されるときは、これによって、発明の実施は特許権者の支配下におかれ、他人の模倣が禁じられる」(第13版・3頁)とあり、独占と支配を一緒くたにしてしまっている。 過失の推定に関して 「特許権の効力は、生産だけではなく使用や譲渡等にも及ぶため(2条3項)、生産業者のみならず、侵害製品の業としての使用や販売行為も特許権侵害となる。しかし実際問題として、使用者に特許権の調査義務を課すことは妥当でない場合も多い。たとえばタクシー会社は業として自動車を使用しており、特許権を侵害する自動車を運行することは侵害となるが、タクシー会社に自動車に関する特許権の調査義務を課すことは事実上難しいであろうし、小売業者も侵害品を販売すれば侵害となるが、小売業者が特許権の調査をすることも期待できない場合が圧倒的に多い。またコンピュータ等の機器類には無数の特許権が付着しているが、ユーザがその特許権の調査をすることは不可能に近い。このような場合には、具体的ケースにもよるが、損害賠償については過失の推定が覆される場合があってもよいのではないかと思われる。・・・・103条は、法律上は推定規定ではあるが、覆滅が困難なので事実上はみなし規定に近い運用がなされているといえよう。しかし調査義務を履行することが事実上困難な場合にまで推定規定を働かせることには問題があり、具体的事例に応じ、過失推定の覆滅を認めるべきであろう」(392頁) 差止請求や(実施料相当額の)不当利得返還請求には過失の存在は不要であるので、過失の推定を覆滅する実益は、実施料相当額を超える部分と弁護士・弁理士費用の損害賠償請求を免れることにある。本書の上記の記述のように、調査義務を履行することが事実上困難な二次的な事業者について過失の推定が覆滅される(あるいは、軽過失とされて実施料相当額を超える部分の賠償額が大幅に減額される)のであれば、特許権者や専用実施権者は、二次的な事業者に対しては差止請求をするに止まり、損害賠償請求は専ら一次的な事業者(製造業者や輸入業者)に対して行うものと考えられ、より衡平な解決が図られることになる。 損害額の算定に関して(その1)「実施の能力を超えたと判断された場合、その超えた部分については、原則として3項の実施料相当額は請求できると解すべきである。しかしこれには反対の判例や学説も多数存在した。要するに102条1項により損害のすべてを評価し尽くしていると考えるべきか否かという問題である。・・・・併用適用否定説は、1項だけで本来の逸失利益は十分に計算され尽くしており、それに3項を併用適用すると逸失利益を超えた損害を認めるものであって、逸失利益をそのように捉えること自体が不当であるというものである。しかし、ビジネスとしても、自らの能力範囲内では自ら実施し、それを超える分については他にライセンスをすることはよくあることであり、これと同じに考えられるであろう。自らの能力の範囲内での実施に対する侵害が1項の問題であり、それを超える分の侵害が実施料相当額(3項の問題)と考えれば、何の問題もないであろう。つまり特許権侵害による損害額は自らの能力の範囲内に限定されると考えることは、情報財侵害における逸失利益のドグマに囚われたものであり、またビジネスの実態とも反するであろう。この問題は、特許権侵害による損害とはいかなる概念かという点に行き着くものであり、情報財の特殊性にも関わるものである・・・・。なお損害額の推定等の規定(102条)については令和元年5月17日に可決、公布された特許法改正・・・・により、・・・・改められた。・・・・旧1項(新1項1号)では、特許権者の生産能力等を超えるとされた部分につき、さらにライセンス相当額の損害賠償を請求することができるのか、という点については学説上争いがあったが、新1項2号により明文で請求できるとされた。本書では、従来から請求できるとの説をとっていたので、この改正は確認的な改正といえるが、学説が分かれていたので、請求できる旨を明らかにする意味は大きい」(404頁) 令和元年の改正前の102条1項(旧1項)において、推定の量的な覆滅によって控除された数量分の侵害品の譲渡(特許権者の商品に対する需要を奪わずになされた譲渡)に対して別途に実施料相当額の損害賠償請求をできるか否かという論点があり、近年の判例によれば一貫して否定されてきた。その理由は、本書の上記の記述のほか、そもそも両者は前提を異にする両立しない別個の損害額の算定方法であって併用できるものではない(二重規範となる)ということであった。一見するとその通りであり、また、(本書の上記の記述もそうであるが)できるとする反対説も(裁判所を説得できるような)決定的な理由を示しているとまでは感じられなかったため、判例の考えで問題ないように思われた。ところが、令和元年の法改正によって判例に反して明文上できることとされたので、結論としての決着は着いたのであるが、何か釈然としない感も残ったままであった(依然として理由が判然としなかった)ため、あらためてこの論点について深く考え直してみたところ、判例の考えが誤りであった明確な理由が分かった。特許権の侵害による損害賠償請求権は、侵害の行為(侵害品の譲渡)の1つ1つについて発生するものであるが、ある期間内における反復継続した侵害品の譲渡に対して旧1項を適用して損害額を算定すると、このことを忘れてしまう。譲渡された侵害品1つごとに個別に損害賠償請求をする場合、特許権者の商品に対する需要を奪ってなされた譲渡(侵害品が存在しなければ侵害品の譲受人は特許権者の商品を購入していた)であれば特許権者の商品1つ当たりの利益額が損害額となり、特許権者の商品に対する需要を奪わずになされた譲渡(侵害品が存在しなくても侵害品の譲受人は特許権者の商品を購入していなかった)であれば実施料相当額が損害額となるのであるから、旧1項を適用して損害賠償請求をすることは前者の集合体に相当し、推定の量的な覆滅によって控除された数量分の侵害品の譲渡に対して別途に実施料相当額の損害賠償請求をすることは後者の集合体に相当するのである。したがって、二重規範とはなっていないし、本来の逸失利益を超える損害を認めることにもならないことが分かる。できれば、法改正による明文化(これによって現1項はやや複雑な条文になってしまった)ではなく最高裁によって解決してほしかったところである。 損害額の算定に関して(その2)「平成10年に新1項が新設されたことにより、新2項の意義が改めて問われることとなる。考えられる1つの解釈は、両項とも逸失利益の算定方法であるが、ただその方法が、1項では権利者側の事情を中心に判断し、2項では侵害者の事情を中心に判断しているにすぎないというものである。他の解釈は、逸失利益の回復は1項に任せ、2項には利得の吐き出し的機能を持たせようとするものである。ただ平成10年改正では2項の条文自体に一切変更はないのであり、1項が新設されたことにより、2項の性質が準事務管理的なものに変化したと解することには若干無理があろう。立法趣旨からいっても、2項は1項と相まって、実質的に損害賠償制度を実効あらしめるためのものであり、従来積み上げられてきた解釈は基本的には今でも通用するであろう。しかし平成10年改正とは別に、特許権侵害における損害とは何か、ということを再考する必要はあろう。1項における『権利者が販売することができないとする事情』、あるいは2項における推定の覆滅の解釈次第で、その額の認定に大きな幅が出てくるであろうし、事実上、利得の吐き出しに近い解釈も可能となろう。これは情報財の侵害の場合の一般論の問題である」(414頁) 侵害の行為の態様を侵害品の譲渡に限定して損害額の具体的な算定方法を規定した1項に対して、2項は侵害の行為の態様を限定しないで汎用性を持たせた規定である。そのため、やや抽象的な規定となっており、様々な解釈の変遷を辿ってきた。かつては利得の吐き出しに近い解釈(侵害の行為による利益の額の算定を特許発明の寄与率によって抑える一方で推定の覆滅はほとんど認めない)がされていた時期もあったが、近年の判例によれば、推定の覆滅が1項に倣って認められており、後発の規定である1項に近づきつつある(これは本書の上記の記述とはむしろ逆の傾向である)。侵害の行為が侵害品の譲渡以外の場合は、(1項のような規定がないので)その傾向は合理的であるが、侵害品の譲渡の場合は、1項と2項のいずれを適用してもよいので、2項を1項に近づけると2項の意義が失われることになる。なお、訴訟においては1項よりも2項の適用を主張する特許権者が多いこと(侵害品の利益率よりも自己の商品の利益率が高い場合にまで2項の適用を主張しているのかは定かでない)からすると、自己の商品の利益率を開示しなくて済む点に2項の意義を見出している特許権者が多いのであろうが、これは2項の本来の意義ではないように思う(そのような理由で1項が不人気となっているのは残念である)。 損害額の算定に関して(その3)「2項と3項の関係については、権利者が販売できなかったという理由で推定が覆滅された場合については、1項の権利者の能力を超えた場合と同じであり、両項の併用適用を認めるべきであろう」(415頁) 推定の覆滅が1項に倣って認められるという近年の2項の解釈を前提とすれば、本書の上記の記述の通り、推定の量的な覆滅によって減額された金額分の利益(特許権者の商品やサービスに対する需要を奪わずに得られた利益)に対して別途に実施料相当額の損害賠償請求をできることになる。そうすると、令和元年の法改正は1項に特有のものとはならないので、残念ながら同項の不人気が解消されることは期待できず、依然として2項の人気が続くことになりそうである。なお、1項のように明文化しなかったのは、2項の汎用性(侵害品の譲渡以外の侵害の行為にも用いられる)を害しないためであると考えられる。 損害額の算定に関して(その4)「立法者の意図、あるいは判例や多数説のように、特許権侵害による賠償を一般の不法行為法の枠内で捉えることが妥当か、という点について再考する必要があろう。特許権のような情報財の独占的利用権の侵害についての逸失利益を具体的に算定することがそもそも可能であるのか、あるいは逸失利益をもって損害とすべきことが果たして妥当なのであろうか、という点についても疑問なしとしない。また、特許権侵害は、物の場合とは異なり侵害に占有奪取を伴わないため、侵害の場所的、時間的制約はなく、有体物の侵害と比較して、侵害はより容易であり、かつ侵害の発見と防止はより困難である。その上、他人の占有の奪取のように直接的あるいは暴力的な加害行為を伴うことがないため、侵害への誘惑もそれだけ強いことになる。現在の不法行為法は損失の補填を目的としており、制裁的機能はないといわれている。しかし以上のような観点からするならば、特許権侵害の賠償制度については、侵害を抑止する何らかの制度的担保が必要ということになり、ある程度の制裁的機能を加味して解釈しても背理ではないであろう。このように考えるならば、損害額に関する従来の判例や多数説とは異なった解釈も可能ではないかと思われる。少なくとも、最低限、『侵害へのインセンティヴ』とならないような解釈論が必要とされよう。ただ注意をしなければならないのは、特許権を含めて知的財産権は一般に、有体物の場合に比して、その保護される境界が必ずしも明確ではなく、かつ優秀な技術は多くの者が実施することを欲し、他人の特許権に抵触しない範囲でなるべくその優秀な特許に近い技術を実施するのは不当なことではない。その結果、侵害するという意識はなくとも結果的に侵害となってしまう場合も少なくなく、その上過失を推定されて、あまりに膨大な損害賠償額を請求されたのでは侵害者にとって酷な場合もあり、そのことは新技術開発への萎縮効果を与えかねない。そのような観点からは、損害額は実損と同額でしかるべきであるという結論にもある程度の合理性があるが、常にそのような結論を導くと、『侵害へのインセンティヴ』ともなりかねないであろう。要は、その両者の兼ね合いの問題である」(418頁) 特許権の侵害による損害額を侵害の抑止のために制裁を加味して実損よりも高額化することは、発明の特許要件である進歩性の程度を緩和して特許を受けやすくすることと同様に諸刃の剣である。事業者であれば、自己の特許権を侵害されるリスクと同じくらいに他人の特許権を(本書の上記の記述の通り、侵害するという意識はなくとも)侵害するリスクにもさらされているからである。また、特許権者には損害賠償請求権のほかに差止請求権という強力な権利も与えられているので、特許権者は差止請求権の行使によって自ら侵害を早期に停止させることも可能である。したがって、侵害の抑止のために損害額を実損よりも高額化する必要性は必ずしも大きくはないように思う。なお、故意による侵害に対しては刑罰という抑止力があるが、故意の証明は商標権の侵害のように容易ではないので、実効性には乏しいかも知れない。 間接侵害に関して 「間接侵害の成立は、直接侵害の存在が前提とされるのか否かという点に関し、前提とされるとする従属説と、前提とされないとする独立説が対立している。理論を貫徹させるならば、従属説に立つと、間接侵害となりうる部品の実施権原を有する者(たとえば実施権者)への提供、単に試験研究のための実施をするだけの者への部品の提供、非営業者への部品の提供、特許期間満了後に実施する者へ提供する行為、仕向国(輸出の相手国)で組み立てるための部品の輸出等は直接侵害が存在しないので非侵害ということとなるし、独立説に立つとその逆ということになる。しかしどちらの説を貫徹しても不都合が生じ、現実の学説は何らかの修正をなして具体的な妥当性を図っている。この学説は、独立説あるいは従属説から直ちに結論を導こうとするものではなく、その実施によって直接侵害と同じ利益状況が生ずるか否か、あるいは特許法の目的から妥当な結論を導こうとするものである。判決の中にはどちらかの立場に立った議論をしているものもあるように見えるが、それはその事件においてはそのような解釈が妥当であったというにすぎない場合が多く、むしろ判決は具体的事件に応じて個別的な解決をしていると見るべきであろう」(460頁) 本書の上記の記述のように、独立説と従属説の対立が間接侵害における基本的な論点としてよく論じられるが、101条各号に掲げる行為をすると間接侵害になるか否か(条文では、それらの行為はすべて間接侵害とみなされる旨の規定ぶりとなっているが、それは流石にあり得ない)は、直接侵害の成否の場合と同様に、それらの行為をする正当な権原を有するか否かによって判断するのが正解であるように思う。そして、何が正当な権原となるかについては、特許権者や専用実施権者の許諾のほか、特許発明を実施する正当な権原がそれに該当すると考えられる。そうすると、結果として独立説ということになるが、これでは特許権の効力を過大に拡張するようにも見えるが、二号や五号において明文で一定の制限が設けられている(一般に流通している汎用品や善意の行為には及ばない)し、その制限の範囲外の行為であっても特許発明を実施する正当な権原を有する者から委託されて委託者の一機関や手足として行うのであれば間接侵害にはならないので、問題はない。 均等論に関して(その1)「最高裁(ボールスプライン事件)は均等論適用の第1要件として、クレームと対象製品等との異なる部分が本質的部分でないことを挙げている。裏から見ると、対象製品等が当該特許発明の本質的部分のすべてを含んでいると同義である。本質的部分については、クレームに記載された特許発明を全体として従来技術と比較して、課題解決の特徴的部分であるか否かによって判断される。その判断は基本的にはクレームや明細書の記載を中心に把握される解決すべき課題とその解決手段からなされるが、単に構成要素とされているものを用いていれば直ちに本質的部分と認定すべきものではなく、出願時の公知技術や技術水準等も考慮し、『従来技術に見られない特有の技術的思想を構成する特徴的部分』と考えるべきであろう。・・・・置換された部分が特許発明の本質的部分であるならば、特許発明と対象製品等とは異なった解決原理を用いていることになり、当該部分が他の構成に置換されれば全体として当該特許発明とは異なった技術的思想といえる。同一の作用効果を奏するというだけでは、置換可能性を満たしているとはいえても、必ずしも本質的な部分まで同じとはいえない。第1要件充足性の判断において、従来技術と比較して特許発明の貢献の程度が大きいと評価されるもの(大きな発明、パイオニア発明)においては、当該特許発明を上位概念化して判断されることになり、逆に小さな発明については、特許請求の範囲とほぼ同じものと解釈されることになろう」(504頁) 本書の上記の記述の後半部分は、課題の解決原理を重視するという近年の知財高裁の考えに従ったものと思われる(第2版には記載されていない)が、最高裁のいう「特許発明の本質的部分」(その後に下級審の判決によって「従来技術に見られない特有の技術的思想を構成する特徴的部分」とまで具体化された)の意義については、従来技術と比較した特許発明の貢献の程度の大きさに応じて上位概念化して抽出されるような課題の解決原理を意味するのではなく、特許による保護の根拠となる部分(すなわち、進歩性の根拠となるような特徴的部分)を意味すると解するほうが自然であるように思う。また、最高裁は第1要件を設けた理由を述べていないが、特許による保護の根拠となる部分を含まない発明にまで均等であるとして特許による保護を及ぼすと不合理なことからも、そのように解することが妥当である。なお、特許発明の本質的部分が問題になる場面としては、均等論(第1要件)のほかに、発明者の特定、特許権の消尽(新たな生産か否か)、主観的な間接侵害があり、本書の別の箇所においては、主観的な間接侵害(非専用品型の間接侵害)について「2号・5号の間接侵害が成立するためには、生産・譲渡等される物が『発明による課題の解決に不可欠なもの』でなければならないとされ、これが非専用品型間接侵害の範囲を限定する中心概念である。これは間接侵害を広く認めると予見可能性を害するので、間接侵害が不当に拡張されないようにするための限定要件であり、その観点からの解釈が必要となる。2号・5号は、『発明の実施に不可欠なもの』ではなく、『課題の解決に不可欠なもの』と規定されているので、単にそれがなければ実施ができないものという意味ではなく、その発明の本質的な部分、つまり従来技術では解決できなかった課題の解決の実現に不可欠なもの、すなわち新規性・進歩性を基礎づけるものでなければならない」(465頁)との記述があり、こちらは特許による保護の根拠となる部分であると解しているようである。 均等論に関して(その2)「最高裁判決は第5要件として、特許請求の範囲から意識的に除外されたものにあたるなどの特段の事情がないことを挙げている。これは、第4要件と同様、均等論特有の要件ではない。この要件を充足するためには、出願人は出願時にクレームに記載することができたはずである、という程度では足らず、出願者が特許請求の範囲外の他の構成で代替できるものとして認識していたものと客観的・外形的に認められる場合に適用されると解すべきであろう。具体的には、・・・・出願人が除外を示すような説明をして登録されたことが出願経過から判る場合、特許明細書には記載があるが特許請求の範囲には記載がない場合、出願人が公表論文等で請求の範囲外の他の構成による発明を記載している等の場合は、原則として第5要件により均等は認められない」(513頁) 本書の上記の記述は、均等の第5要件のうち、出願時における意識的除外についてのものであり、平成29年3月24日の最高裁の判決に従ったものと思われる(第2版には記載されていない)。同判決は、その前年にされた原審の知財高裁の大合議判決(最高裁とほぼ同旨)とともに、それまで妥当であると思われた近年の判例の流れ(出願時に特許請求の範囲に容易に記載できたのに記載しなかった発明は特許請求の範囲から意識的に除外したものと判断される)を覆すものであったため、最初は強い違和感を感じた(特許請求の範囲を作成した特許権者に甘く、それを読んで判断する第三者に厳しい)のであるが、特許法概説において、意識的除外について「この基準はあくまでも出願人が意識的に除外したことが明らかであると認められる場合に限って適用すべきであって、除外したかどうか疑わしい場合にまで適用すべきでないことである。いいかえれば、疑わしい場合の利益・・・・は出願人の側にあるということである。けだし、特許を受けようとして出願する者は、その発明について可能な限り最大の保護を求めていると推認するのが合理的であると認められるので、この推認を覆すに足るような事実がない場合、すなわち、疑わしい場合には出願人に有利に解さざるを得ないからである。このような場合の典型的なものとして、明細書において一切言及されていない事項を挙げることができる。すなわち、明細書に一切言及されていない事項であっても、構成要件と均等なものは、特段の事情がない(均等論適用上の除外事項・・・・に該当しない)限り、これを意識的除外事項と解すべきでない。もし、そのように解しないとすれば、明細書に一切言及されていないことを前提とする均等論そのものを否定することとなろう」(第13版・496頁)との記述があるので、最高裁や知財高裁はこの考えを採用したのかも知れないし、そもそも、特許発明の本質的部分以外の部分の違いについての話なので、それほど厳格に線引きする必要もないのかも知れない。なお、出願時に特許請求の範囲に容易に記載できたのに記載しなかった発明は特許請求の範囲から意識的に除外したものと判断されるとしたとしても、容易に記載できなかった発明については均等論を適用できる余地があるので、均等論そのものを否定することにはならない。 以上、気になった記述を抜粋して寸評を述べたが、最後に総評を述べる。まず、どうしても特許法概説との比較になってしまうが、大なり小なり細かく項目分けがされて、各項目の記述が短かめにまとめられている特許法概説に対して、本書は項目分けが非常に少なく、各項目の記述が長くなりがちなことが気になった。1つの項目を読み終えて所望の情報を得るまでに結構なエネルギーを要する。したがって、マニュアルのように参照する使い方には向かない。じっくり読み込んで第一人者の考えを知ることに割り切ったほうがよい。また、寸評からも分かる通り、第一人者の考え(解釈論や立法論)といえども、同意できないものも少なくなかった。最終的には裁判所(立法論については立法者)が判断することであるので、それまでは読者それぞれの考えを第一人者に(自分の頭の中で)ぶつけることができることが、本書の最大の醍醐味であるように感じる。逆にいえば、それなりに自分の考えを持ってからでないと、本書の真価は発揮されないということになる。したがって、本書が基本書となることは難しいように思われる。
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