特許法の体系別の解説書である。吉藤幸朔著「特許法概説」の絶版後に程なくして同じ有斐閣から初版が発行されたため、当初はその後継書かとも思われたが、毛色は異なり、中山信弘著「特許法」の内容を薄くした感じの体系書である。特筆すべきは、初版からきっかり3年ごとに改訂が重ねられていることであり、第7版まで続いていることからすると、特許法の体系書として一定のポジション(需要)は確立しているようである。著者は(陪席)裁判官として知的財産関係の事件も担当されていたが、かなり前のこと(知的財産権が近年ほど注目されておらず、また、インターネットによるアクセスもできなかった昭和末期に近い)であり、知的財産法の分野において広く名が知られるようになったのは退官後に執筆された本書の影響が少なくないと思われる。以下、気になった記述を抜粋して寸評し、最後に総評を述べる。 発明の定義に関して 「知財高判平30・10・17・・・・〈ステーキの提供システム事件〉は、ステーキ店において店員が札やシールや計量機などを用いて客にステーキを提供する、ソフトウェアと関連しないシステム(ビジネス方法)の発明について自然法則の利用性を認めた。ソフトウェアに関連しない紙やシートを用いる発明の自然法則の利用性を否定した・・・・資金別貸借対照表事件や省エネ行動シート事件の判示と対比するならば、疑問が残る」(33頁・注釈13) ステーキの提供システム(いきなり!ステーキ)事件の知財高裁の判決は、自然法則の利用を認めたことで特許関係者の間で話題となり、本書の上記の記述もそうであるように、否定的な意見が多いようである。ここで引き合いに出された資金別貸借対照表事件の東京地裁の判決(平成15年1月20日)や省エネ行動シート事件の知財高裁の判決(平成28年2月24日)は、いずれも自然法則の利用を認めなかった(同様の判決は他にもいくつかある)ので、ステーキの提供システム事件も自然法則の利用を認めるべきでないと考える者が多いのかも知れないが、自然法則の利用の有無を課題が解決される本質的な原因が自然法則であるか否かによって判断すると、これらとステーキの提供システム事件の判決は必ずしも齟齬するものではないことが分かる。簡単に説明すると、ステーキの提供システム事件は、客の好みの量のステーキを(安価に)提供することを課題とし、札(テーブル番号の情報を計量機まで正確に持ち運ぶための手段)、計量機(肉を計量するとともにテーブル番号の情報とその客が注文して計量を確認した肉の量の情報を組み合わせてシールに出力する手段)、シール(テーブル番号の情報とその客が注文して計量を確認した肉の量の情報の組み合わせをその肉やオーダー票に付する手段)により、他の客が注文した肉との混同が防止される結果、その課題が解決される(なお、安価という課題は、立食形式という手段によって解決される)のであるが、これによれば、課題が解決される本質的な原因は人間の精神的な作用である記憶ではなく自然の作用である札、計量機、シールによって他の客が注文した肉との混同の防止(判決では、これを不可避的に生じる要請であるとし、課題の解決に直接に寄与するものとしている)を達成していることにあり、一方、資金別貸借対照表事件や省エネ行動シート事件は、いずれも課題が解決される本質的な原因は自然の作用である紙やシートではなくそこに提示された情報の特徴にあるので、異なる結論となったとしても、(自然法則の利用の有無を課題が解決される本質的な原因が自然法則であるか否かによって判断する是非はさておき)それなりの理由があることになる。 産業上の利用可能性に関して 「人間の手術方法や治療方法などについて特許を認めない根拠としては、・・・・東京高判平14・4・11〈外科手術の光学的表示方法事件〉も指摘するように、医療現場での医師の救命行為などが特許権によって妨げられることがあってはならないという人道上の政策的配慮を挙げるほかない。しかし、・・・・アミノ酸配列で特定された遺伝子について発明と認めて特許を付与することも、これを利用した医薬品の開発を制限し、人道上の問題にも発展しかねないのであって、人道にかかわる医療上の問題について産業上の利用可能性要件によって解決を図ることには限界がある。特許庁の出願実務に委ね、審査基準の改訂に期待するだけではなく、立法的な解決を図るべきであろう。そして、立法施策としても、医師によって行われる人間の手術、治療または診断方法について特許による独占を認めるべきでないとすることには、規定のしかたはともかくとして、ほとんど異論はない。そうすると、結局、残された問題は、医薬や医療機器についての物の発明とも医薬や医療機器の製造方法の発明とも構成できず、単純な方法としてしか構成できない技術について、特許を付与すべき場合があるか否かだけになる。そして、現行の審査基準によって特許性の認められている人間から採取したものを処理、分析する方法や、医療機器の作動方法なども、医療機器・医薬としての物の発明か、医療機器や医薬の製造方法の発明と構成して権利化することが多くの場合に可能であり・・・・、真の意味で単純な方法としてしか構成できない技術は、個人の技量に依拠したものであって反復可能性がないから、自然法則を利用した『発明』といえないとする・・・・か、あるいは人道上の観点などから特許性を否定すべきであろう」(47頁) 本書の上記の記述のように、医療行為の発明(医師のみが実施できる発明)を特許の対象から除外する理由として人道上の問題が挙げられることが多い(外科手術の光学的表示方法事件の東京高裁の判決は、人道上の問題というよりも医師の保護を理由に挙げており、医師が特許権の侵害を問われる恐れを抱かずして医療行為の発明を実施できるような措置が講じられていない現行の特許法においては、産業上の利用可能性を有しないとして特許の対象から除外していると解する以外にないとしている)が、特許の対象である医薬や医療機器の発明についても大なり小なり当てはまることであるので、賛成できない。やはり、医療行為の発明を奨励することは(国民の生命や健康の維持に資するものであって産業の発達に寄与するものではないので)特許法の目的外であると端的に考えれば足りることと思う。 進歩性に関して 「進歩性があるか否かの判断は、数多くの判例や審査審判実務において示されており、これを具体的に説明することは基本書としての本書の性格上困難である。ごく簡単に説明するならば、発明の進歩性はその構成を想到することが容易であるか否かを基本として判断される。模式的にいうならば、まず出願発明の周辺に存するこれと構成が最も近似する先行技術(これを引用発明という)の内容を特定し、出願発明の構成との相違点を特定する。そのうえで、出願発明が解決しようとした課題に到達するのに必要となる引用発明に対する変更点を特定して、その発明(出願発明)がされた時点で当業者が引用発明の構成を変更して出願発明に至ることが容易であるか否かを検討することになる。その場合に、引用発明から出願発明に至ることが、両発明が技術分野、課題、作用や機能が共通していたりすることによって論理的に説明できたり、あるいは引用発明の内容中に出願発明に至る示唆がある場合などには進歩性は否定する方向に傾くが、構成の変更を思い至ること自体は容易であったとしても、その変更によって予期しない顕著な効果が生じたような場合には進歩性が肯定される方向に働く」(57頁) 特許法の体系書として進歩性について簡単な説明にとどめることの是非はさておき、本書の上記の記述は少々荒っぽいのではないだろうか。これならば、特許庁が(審査における指針として作成して)ウェブサイトで公開している「特許・実用新案審査基準」の進歩性に関する記述を簡単にでも紹介したほうが良心的である。なお、同審査基準は、特許庁内のみならず審査に関する基本書のようなものとして広く一般にも利用されているが、裁判所の判断を拘束するものではないので、あくまでも判例によるロジックを優先して理解すべきである。 職務発明に関して 「2004(平16)年改正から10年ほどしか経ていない2015(平27)年に再び特許法35条の改正が検討された当初においては、発明をした従業者にのみ法定の対価請求権を与えるのは、製品化のための工夫をした従業者や製品販売の努力をした従業者等に利益が還元されないのと比して不公平であるとして、会社が最初から特許を受ける権利を取得すると構成することで、発明をした従業者の法定請求権を否定したいとの一部の産業界からの要望があったといわれている。しかし、無から有を産み出すといった知的創作活動に対する評価の点に加えて、会社としては発明者以外で製品の売上等に貢献した従業者に対しては、法定請求権でなくとも、相応の利益を還元することで、このような不公平は解消することができるだろう」(94頁・注釈14) 特許法35条に対する批判の1つとして、職務発明をした従業者にだけ給与とは別個に相当の利益(対価)を受ける権利(法定請求権)が与えられるのでは他の従業者との間で衡平を欠くことを指摘するものが少なくないが、職務発明による利益に対する他の従業者の貢献については使用者の貢献としてカウントされる(さらに言えば、職務発明をした従業者のその後の貢献、すなわち、職務発明の完成後の特許出願や製品化における貢献についても使用者の貢献としてカウントされる)ので、その分だけ増えた使用者の取り分から、本書の上記の記述のように、法定請求権でなくとも使用者が任意に相当の利益を還元(配分)することで不衡平は解消されるのである。なお、本書の上記の記述のように、発明は知的創作活動という顕著な活動(誰でもできるようなことではない)であるが故にわざわざ法定請求権を設けてそのような活動を奨励しているのであるから、他の従業者への利益の還元は、それと比肩するような顕著な貢献があった場合に限定することができる。 均等論に関して 「均等論は特許請求の範囲の文言解釈から導かれる特許発明の技術的範囲を拡張するものなのか、文言侵害が成立せず特許発明の技術的範囲に含まれない場合を権利範囲に取り込むものなのかは、均等論に対する理解の違いによって見解が異なる。通説は前者の立場である。私見は、・・・・均等論を二分し、出願時に存在しなかった技術への置換に対する均等論は、特許発明の技術的範囲外に特許権の効力を及ぼすものであるが、出願時に存在した技術への置換に対する均等論は、均等論とは称するものの真正な均等論ではなく、融通性のある文言解釈論(実質的同一論)であると解するから、この置換技術は特許発明の技術的範囲に属することになる」(149頁・注釈2)、「杓子定規な文言解釈論も野放図な均等論も特許権の効力の及ぶ範囲を決定するうえでは望ましくない。ボールスプライン軸受事件最三小判は、均等論を二分はしていないが、出願時に存在していなかった技術への置換の場合の均等論と、出願時に存在していた技術への置換の場合の均等論は法的性質も異なり、前者は特許発明の技術的範囲の外に特許権の効力を及ぼす論理であり、後者はあくまで特許発明の技術的範囲の解釈論の一環であろう。後者をも均等論と呼ぶことにあえて反対はしないが、私見によれば、これは擬似均等論ともいうべきものであって、融通性のある文言解釈論の幅の程度において認められるにとどめるべきである」(156頁・注釈10) 特許出願に係る発明の特許要件の適否を判断する際に考慮される「実質的な同一」(相違点が実質的なものでないこと、すなわち、相違点が特許出願時における当業者の技術常識であって新たな効果を生じるものでないこと)と特許発明の技術的範囲への属否を判断する際に考慮される均等論による「均等」の関係(ちなみに、特許出願に係る発明の特許要件の適否を判断する際に均等論は全く考慮されない)については、あまり議論を目にしないので気にかけることもなかったのであるが、本書の上記の記述に触れたことによって検討してみると、確かに均等には実質的な同一に相当するものとそうでないものが含まれており、二分できることが分かった。ただし、分け方としては、置換技術(特許発明の構成要件の一部を置換した対象物件や対象方法の置換部分)が特許出願時に存在していたか否かではなく、特許出願時における当業者の技術常識であって新たな効果を生じるものでないか否かということになる。そして、このように二分すると、実質的な同一に相当する均等については文言解釈を超えるものではなく、それ以外の均等については文言解釈を超えたものとなるので、前者は均等侵害ではなく文言侵害となり、後者のみが均等侵害となりそうである。そうすると、本書の上記の記述のように両者で法的性質(法的効果)は異なることになり、本来であれば実質的な同一として文言侵害を肯定すべきであったのに文言侵害を不成立とした上で均等論の適用を試みて均等侵害も(主に均等の第1要件の不適合を理由に)不成立としたケースがありそうである(もしそうならば大きな問題である)。 間接侵害に関して(その1)「独立説は均等論に関する・・・・最三小判平10・2・24〈ボールスプライン軸受事件〉との間で整合性を取ることができない。なぜならば、特許発明の構成要件中の一部が置換されあるいは欠落していても、残存する構成要件部分が課題の解決に不可欠なものであって、それのみの生産や譲渡をもって間接侵害の成立が認められるのであれば、あえて直接侵害として均等侵害の成立を認める必要もないことになってしまうからである」(175頁・注釈3) 本書の上記の記述は疑問であり、むしろ、従属説のほうが均等侵害との整合性が取れないのではないか。従属説のために間接侵害が否定されて適法とされる行為が均等侵害によって違法とされてしまうのは不合理だからである。なお、特許法101条は(明文はなくとも)間接侵害が特許発明の実施でない行為に限って成立することを当然の前提としていると解されるので、特許発明の実施の一態様である均等侵害と間接侵害が同時に成立することはない。 間接侵害に関して(その2)(独立説と従属説の)「どちらが妥当だろうか。たとえば、以下の事例を想定して、両説による帰結がどうなるかを見てみよう」、「A 特許発明の実施、たとえば完成品の製造や使用は業としては行われず、家庭内でしか行われない場合に、その部品を生産したり販売したりする行為:たとえば、パンの焼き方の発明について特許があるが、そのようなパンの焼き方は、業としてではなく、家庭内でしか行えないと仮定する。この場合に、そのようなパンの焼き方に使用するパン焼器を製造販売する行為」、「B 特許発明の実施としての完成品の組立ては外国でしか行われない場合に、そのための輸出用部品を国内で製造し販売する行為」、「C 特許発明の実施権者が製品を生産するための部品を製造し販売する行為」、「D 試験または研究のために特許発明が実施される場合(69条1項)にその部品を製造し販売する行為」、「AないしDのいずれの場合であっても、独立説ならば擬制侵害(間接侵害)が成立し、従属説ならば成立しないとするのが首尾一貫している」、「しかし、Cの場合に間接侵害の成立を認めたのでは、実施権者は、特許発明の実施権があるといいながら、そのための部品は、別に特許権者から許諾を得ている部品製造業者から購入するしかないことになり、不都合である。また、Dの場合も、・・・・試験研究のための特許発明の実施は後の技術開発に有用であるとして特許権の効力を及ぼさないとの法政策が採用されているにもかかわらず、間接侵害の成立を認めて、試験を行う者が部品を購入できなくしたのでは、不合理である。そこで、独立説であっても、CやDの場合には擬制侵害(間接侵害)は成立しないとする立場が優勢となっている」、「また、Bの場合に、わが国の特許権の効力が制度上及ばない外国での行為の幇助行為を違法とするのは、特許権の不当な拡張というべきであって、理由づけが困難である」、「そこで、独立説であっても、Bの場合には擬制侵害(間接侵害)は成立しないとする説が有力である」、「そうすると、BないしDの場合は、従属説ならばもちろん、独立説であっても擬制侵害(間接侵害)の成立を否定するのが現在の通説ということができる。そして、Aの場合に関してだけは、逆に、独立説ならばもちろん、従属説であっても間接侵害の成立を認めるのが通説となっている。家庭内での特許発明の実施に対して特許権の効力を及ぼさないのは、産業の発達に寄与するといった特許法の目的からして不必要で強力な規制であるとの政策的な理由に基づくものであって、家庭内での実施による市場機会を特許権者が享受すべきではないとの趣旨に出るものではなく、一方で家庭内における実施のために業として部品を供給する行為が権利侵害とならないのでは権利者に及ぼす影響が大であって特許権者と部品供給者との均衡を失することになることを考慮するものである。しかし、Aの場合自体あまり現実的な問題設定とは思われず、ほとんどの場合は特許請求する対象を工夫することで回避できる不利益でしかない。このような場合に、家庭内における特許発明の実施に特許権の効力を及ぼさないとするのが単なる政策的な理由であるとすることや権利者への影響の大小をもって従属説を修正する合理性は見いだせない。結局、AないしDのすべての事例において従属説を採用して問題はないように思われる」(176頁) 本書の上記の記述もそうであるが、独立説と従属説の対立について事例で検証した記述に触れるたびに疑問に思うこととして、部品や部材の供給には特許法的に区別すべき二種類の態様があることに言及しないのは何故なのかということがある。直接侵害については、特許発明の実施の外部委託が特許権の侵害となるか否かという論点があり、委託先による特許発明の実施が委託者(特許発明を実施する正当な権原を有する者)自身による実施と同視できる場合(委託者の一機関や手足に過ぎない場合、すなわち、委託者の指揮監督下で委託者のためにのみ実施する場合)であれば侵害にはならないという結論(最高裁の判決)が出ているが、間接侵害についても、それと同様のことが成り立つはずであり、委託先による部品や部材の生産が委託者自身による行為と同視できれば侵害にはならないと考えられるのである。そうすると、AないしDのいずれの事例においても、部品の製造が特許発明を実施する者(その正当な権原を有する者)自身による行為であると評価できるか否かによって間接侵害の成否が決することになり、それで何らの問題も生じない(そのように評価できない場合の部品の製造は直接侵害のリスクを払拭できない)。ちなみに、特許法概説によれば、「特許権侵害は、業を要件とするから、最終の組立のみを、個人的・家庭的に行わしめることができる物については、何人も(組立用部品のメーカーも)侵害の責を負うことがないという不都合を生じる。したがって、このような行為(間接侵害(広義))を有効に禁止しなければ、特許権の効力は実質上著しく減殺されることとなる」(第13版・457頁)ので、Aのような事例が非侵害となるのを防ぐことも間接侵害の規定(特許法101条)を設けた趣旨の1つ(もう1つは言うまでもなく直接侵害の予備的な行為(狭義の間接侵害)の防止)であるとしており、Aの事例について従属説は採用し得ない。 専用実施権に関して 「ともに物権類似の排他的独占権である特許権と専用実施権の関係は、ともに物権である土地所有権と地上権の関係に喩えて説明することができる。地上権が設定されると、土地の全面的支配権である所有権が制限され、逆に所有権者は地上権者による土地の使用を妨げてはならないという義務を負担する。これと同様に、専用実施権が設定されると、設定行為で定めた範囲内では、特許権者は特許発明を実施することができなくなり(68条ただし書)、専用実施権者のみが独占的排他的権利を取得することになる」(210頁)、「専用実施権の設定された範囲内では特許権者といえども特許発明を実施できなくなることは前述した。自らも実施できないのであるから、他者に重ねて専用実施権を設定することができないのは当然であるし、通常実施権を許諾することもできなくなる」、「専用実施権が設定された範囲内で、特許権者に留保されている権利・地位とは、たとえば、特許権者として差止めや損害賠償等の訴訟を遂行できることのほか、専用実施権者の以下のような行為について、特許権者の同意が必要であるとして、規制できることである。@専用実施権の譲渡(77条3項) A専用実施権に対する質権の設定(77条4項) B専用実施権者による他者への通常実施権の許諾(77条4項)」(211頁) 本書の上記の記述のように、特許権や実施権について物権(や債権)との比較による説明を目にすることがあるが、無用なように思う(民法に通じていないと理解できないし、どんな実益があるのかも不明である)。あくまでも、特許法に基づいて説明すべきであり、それで足りるはずである。そうすると、まず、特許権や専用実施権はいずれも特許発明の実施の独占権であり(特許権につき68条本文、専用実施権につき77条2項)、さらに、いずれも特許発明の実施の支配権でもある(特許権につき77条1項と78条1項、専用実施権につき77条4項)ことが明らかであり(なお、専用実施権者による支配権の行使には特許権者の承諾を必要とするが、特許権者による支配権の行使、すなわち、専用実施権者にのみ特許発明を実施させるという特許権者の意思を害しないためのものである)、そして、専用実施権の設定後の特許権については、支配権のみが残存した状態となる(68条ただし書)。本書の上記の記述において特許権者に留保されている権利や地位とされるものは、支配権が残存していることを表すものである。 通常実施権に関して 「物権類似の排他的独占権である特許権(あるいは専用実施権)と、これを利用することを内容とする債権である通常実施権との関係は、土地所有権と、これを利用することを内容とする債権である賃借権との関係に喩えて説明することができる。通常実施権はあくまで債権的な権利であるから、契約の相手方に請求できる権利にすぎない」(213頁)、「有体物の賃借権の場合は、賃借人は賃貸人に対して賃借物を利用させるように請求する権利があり、その内容として賃借物の引渡しを請求することができる。しかし、特許発明の通常実施権においては、実施権者が権利者に特許発明を実施させるように請求する内容として、引渡しを請求する必要はなく、単に実施権者の特許発明の実施を承認してもらうことで足りる。その意味で、実施権者が権利者に対して取得する請求権は不作為請求権であるということができる」(214頁・注釈7) 本書の上記の記述は、現行の特許法上では、明らかに疑問である。通常実施権は、単に特許発明を実施する正当な権原、すなわち、特許発明の実施を特許法上(違法から)適法にするものに過ぎず、債権(不作為請求権)とは到底言えないからである。仮に、特許法が特許権を独占権のみとして規定していた(実施権に関する規定がなかった)場合に、特許権者が他人との間で特許発明を実施しても特許権の侵害を問わない(差止請求権や損害賠償請求権を行使しない)旨の契約をして他人に特許発明を実施させる(この実施は特許法上は違法であることは変わらない)のであれば、それは不作為請求権ということになり、また、特許法が特許権を独占権ではなく排他権として規定していた場合(具体的にどのような条文となるのかはさておく)にも同様の不作為請求権が成り立ち得るが、現行の特許法はそうではないし、そのような特許法のほうが現行のものより優れているとも考えられない。 過失の推定に関して 「侵害者の過失が推定される根拠は、特許庁での実体審査を経て特許査定がされ、特許原簿に登録されて成立した特許権の存在と特許発明の内容が、特許公報で公に知らされている(66条3項)ことにある」、「理論上は、侵害者が、特許権が存在しているとの認識を欠如していたことに相当の理由があったこと、あるいは権利を侵害しないと信じるのに相当の理由があったことを立証すれば、過失の推定は覆ることになるが、実務上はこの推定が覆ることはほとんどないといわれている。たとえば、弁理士の非侵害との鑑定意見を信じたなどの主張もこの推定を覆すことはできない(大阪地判昭59・10・30・・・・〈手提袋の提手事件〉)。また、製造業者だけでなく流通業者であっても「業としての譲渡」について過失が推定される。しかし、たとえば特許権侵害を理由に損害賠償請求を提起され、一審で権利侵害しているとは認められないとして請求が棄却されたが、控訴審で結論が逆転して請求が認容された場合に、一審判決から控訴審判決に至るまでの被告の実施行為など、過失の推定が覆ってもよい場面も想定されないわけではない(ただし、知財高判平24・3・22・・・・〈餅事件終局判決〉はこのような場合も過失の推定は覆らないとしている)」(295頁) 本書の上記の記述のように、かつては特許公報の発行前については過失の推定がされない(あるいは覆滅される)こともあったが、近年の判例によれば一貫してそのことは否定されている。特許公報の発行後については特許権は容易に知り得る状態となるので過失を推定する規定を待つまでもなく過失があったものと認められるとする近年の判例もあることからすると、過失を推定する規定は、特許公報の発行を根拠とするものではなく、単に特許権者を保護する(証明を不要とする)ためにあるものとなったようである(推定のままとなっているのは、みなしとすると故意まで過失になってしまうからと考えられる)。そうすると、弁理士や弁護士のような専門家による非侵害の鑑定はおろか、餅事件の知財高裁の判決のように非侵害の第一審の判決を信じたことですら控訴審において過失の推定を覆滅するに至らないことも納得である。なお、過失がなくとも差止請求や実施料相当額の不当利得返還請求はされ得るので、侵害者に苛酷とまでは言えない。問題は過失の有無自体ではなく、重大な過失がなかったときは実施料相当額を超える部分の損害賠償額を減額できるとする規定(102条5項)がありながら、過失の大きさについてこれまでほとんど争われてこなかったことであり、過失の推定の覆滅が事実上不可能となった以上、今後はそちらに焦点を移していく必要がある。 損害額の算定に関して(その1)「権利者が侵害行為がなければ販売できた物とは、特許発明の実施品である必要があるか否かについては説が分かれ、知財高大判令2・2・28・・・・〈美容器事件〉は『侵害品と市場において競合関係に立つ特許権者等の製品であれば足りる』と判示した・・・・。しかし、・・・・いずれも特許発明を実施した権利者製品と侵害者製品とが競合するからこそ、特許法102条1項の計算が成り立つというべきである。したがって、権利者自らが特許発明を実施していないのに特許法102条1項の計算が成り立つ場合というのは、単なる競合関係にある製品では足らず、侵害品が売れなければ権利者製品が売れたといった代替性が認められるような特殊な場合に限定されると解すべきである」(297頁・注釈5) 特許権者の商品が侵害された特許権とは別の特許発明の実施品であり、侵害された特許権がその特許発明の防衛特許(特許権者が実施する特許発明を代替できる発明について他人に実施されて特許権者の商品の競合品となることを防ぐために取得や維持する特許権)である場合にも特許権者の商品の売上げに損害が生じ得るので、本書の上記の記述における「いずれも特許発明を実施した権利者製品と侵害者製品とが競合するからこそ、特許法102条1項の計算が成り立つというべきである」との考えは疑問であり(そもそも、いずれも同じ特許発明を実施した商品であるからといって必ず競合するとも限らない)、また、「権利者自らが特許発明を実施していないのに特許法102条1項の計算が成り立つ場合というのは、単なる競合関係にある製品では足らず、侵害品が売れなければ権利者製品が売れたといった代替性が認められるような特殊な場合に限定されると解すべきである」とあるが、そこでいう「競合関係」と「代替性」の違いもよく分からない。いずれにしても、「侵害の行為がなければ販売することができた物」をあまりに厳格に解釈すると特許法102条1項を設けた意味がなくなりかねないので、近年の判例の通り、侵害された特許権に係る特許発明の実施品である必要はなく、侵害品と競合や代替する商品であれば足り、競合関係や代替性の大小について必要であれば、推定を量的に覆滅する事由として考慮するのが妥当である。 損害額の算定に関して(その2)(令和2年2月28日の美容器事件の)「知財高大判は、権利者側の限界利益の算定に際して、原告が製造販売している特許発明の実施品においてその売上に貢献している特許の特徴部分とそれ以外の特徴やその顧客吸引力等を総合考慮すると、その利益の6割は覆滅される(権利者の請求できる限界利益額から減じられる)と判断している」(297頁・注釈6)、「2019(令元)年改正特許法102条1項は施行されて間がなく、同項をめぐる解釈については今後の判例や学説の動向を見るほかないが、現時点での私見を簡単に述べておくと以下のとおりである。前掲・・・・知財高大判〈美容器事件〉は2019(令元)年改正特許法102条1項の施行前の事案であるが、特許発明の特徴部分が権利者の実施品の売上に貢献しなかった部分については権利者側の限界利益の算定にあたって考慮される事情とされている。しかしこういった事情は、特許発明の特徴部分が侵害品の売上に貢献しなかった場面と捉えることもできるだろう。特許発明の特徴部分が侵害品の売上に貢献しない場面とは、侵害品に特許発明以外の技術が用いられていたり、侵害品の品質が優れていたり安価であること、著名なブランドが付されていることなどで、・・・・いずれも特許発明以外の貢献により侵害品が売れたという事情ということができる。このような場合、特許発明の貢献により販売できたとされる部分については102条1項1号により損害賠償を請求できる権利者が、特許発明以外の貢献により侵害者が販売できたとされる部分について同項2号により重ねて同条3項により相当実施料額を請求することはできないと解するべきではあるまいか」(299頁) 特許権の侵害による損害額の算定に関する近年の判例や法改正には目まぐるしいものがあり、その全てを正確に理解することは容易ではないし、疑問に感じるものも少なくない。その1つが、令和2年2月28日の美容器事件の知財高裁の大合議判決が示した、特許法102条1項(令和元年の改正前のもの)における侵害の行為がなければ販売できた物(特許権者の商品)の単位数量当たりの利益の額の算定方法であり、どういうわけか、同条2項による損害額の算定において考慮されることが多い特許発明の寄与率に類似する概念と思われる、特許発明が特許権者の商品の販売に貢献している割合を乗じて減額したのである(しかも、減額前の利益額を特許法上の根拠のない推定として算定し、推定の量的な覆滅として減額している)。そのような算定方法を用いた判例は実は過去にもあるにはあった(例の職務発明対価請求訴訟である青色発光ダイオード事件の東京地裁の判決と同じ三村量一裁判長による平成14年3月19日のスロットマシン事件の東京地裁の判決であり、約74億円もの損害額が認められて話題となったが、最終的には特許が無効となって決着した)が、未だに理解できないのである。本件は特許権者が侵害された特許権に係る特許発明をもちろん実施していたのであるが、そうでない場合はどう算定するのであろうか。たまたま書店で立ち読みした書物(書名は覚えていない)において著名な知的財産関係者による座談会形式の記述があり、その中で元知財高裁所長(何方かまでは覚えていない)も本件について、その場合にどのように判断するのか注目される旨の、やや皮肉を込めたような発言をされていたのを目にしたのであるが、おそらく同様の減額はできないはずなので、衡平を欠くことになる。いずれにしても、そのような特許発明の寄与率の類の概念は、この次の寸評で詳述するが、特許法102条2項にはまだしも、同条1項による損害額の算定にまで考慮が必要なものであるとは思われない。なお、本書の上記の記述の最後の一文は、特許法102条1項2号かっこ書を設けた立法者の考えるケース(特許庁がウェブサイトで公開している平成元年の法改正の解説書に記載されている)と同様であり、同改正において疑問に感じるものであるが、実施権を設定や許諾し得たと認められない場合に実施料相当額の損害賠償請求をできないことは立法者の考えるケース以外にも生じ得るので、同かっこ書を設けたこと自体は結果として誤りではなく、ただ、同条3項にも同様の文言を付加するか、同かっこ書を設けずに解釈に委ねるかして、同項と平仄を合わせるべきであったように思う(立法者の考えが端から異なるので、今回は止むを得ない)。 損害額の算定に関して(その3)「特許法102条の1項および2項に共通する問題として、特許発明と関係しない商品デザインなどが販売量増大に貢献したような場合、あるいは一つの製品が当該特許発明のほかにも、いくつかの別の特許発明を実施していたり、商標権や意匠権をも利用していたような場合に、侵害製品売上への当該特許発明の寄与と、その余の要素の寄与割合を考慮すべきか、あるいは考慮する必要はないかという問題がある。一つの製品を販売することによって得られる利益が、それぞれの知的財産権やその他の要因によって産み出されている場合には、そのうちの一つの特許権の侵害を理由にしてこの利益の回収を主張する者が請求できる相手方利益の額は、当該特許発明がこの利益を生み出したことへの寄与率に従って配分される部分に限られるべきである。先に請求した権利者が全体利益のすべてを自らの損害として取得できるとしたり、あるいは侵害者は全体利益額をそれぞれの権利者に重ねて吐き出さなければならないとすることを、理論的に説明することは困難である」、「ただし、侵害行為における特許発明の寄与を損害賠償額の減額要素とする場合に、特許法102条1項1号の『販売することができないとする事情』あるいは同条2項の推定の覆滅事由として考慮するのか、・・・・知財高大判〈美容器事件〉のように権利者の限界利益額算定の際に考慮するのか、またはこれらの事情とは異なる減額事情として考慮するのかは明確とはいえない状況にあった」(302頁) 損害額の算定における特許発明の寄与率(名称として一定のものがあるわけではないが、いずれも特許発明がそれを実施した商品の売上げに寄与ないし貢献した割合を意味することは同じである)の考慮による減額の問題については、本書の上記の記述のように、考慮の是非のみならず、考慮するとしてもどこで乗じるべきか判例上も明確とは言えない状況にある。元々は特許法102条2項において侵害の行為による利益の額を算定する際に考慮したことが始まりであり、その後に同項における推定を量的に覆滅する事由の1つとして考慮することに変わり、さらに近年は、同条1項においても考慮されるようになってきたのであるが、そのいずれもが、考慮すべき理由や他の推定を量的に覆滅する事由との関係が必ずしも判然としないため、そのような状況を生んでいるように感じられる。本書の上記の記述によれば、侵害品が複数の知的財産権を侵害して利益を生み出している場合に先に損害賠償請求した者による全利益の独占や後に損害賠償請求した者への全利益の重ねての吐き出しの予防を理由として考えているようであるが、明らかに疑問である。そのような場合であっても、各権利者の商品の需要をいずれも奪っている(稀なケースかも知れないが、侵害品が存在しなければ侵害品の購入者は各権利者の商品をいずれも購入していた)のであれば、各権利者それぞれに全額の損害の賠償をしなければならず、それらの合計額が侵害の行為による利益の額を超えてはならない(侵害者に利益の吐き出しを超えて損害を与えてはならない)いわれはないからである。おそらく、元々の考慮の始まりから考えると、侵害の行為による利益の額の解釈として、その理由はさておき、侵害品の販売による利益の額そのものを意味するのではなく、そのうちの侵害の行為すなわち特許発明の実施が寄与(貢献)した額を意味すると解した結果、特許発明の寄与率という概念が生まれたのではないかと思われる。そうすると、元々の始まりである特許法102条2項において侵害の行為による利益の額を算定する際に考慮することがやはり正解となり、また、侵害の行為による利益の額を侵害品の販売による利益の額そのものと推定するのであれば、その推定を量的に覆滅する事由として考慮することに変えても正解となる(同項における推定を量的に覆滅する事由の1つとして考慮することは誤りである)が、同条1項における考慮については必要性を見出せないので、特許発明の寄与率は、あくまでも同条2項に特有の概念と考えられることになる。 以上、気になった記述を抜粋して寸評を述べたが、最後に総評を述べる。まず、「標準」と名乗りながら、標準レベルの教科書的な記述だけで進行することなく、通説や判例と異なる著者の見解(自説)も随所に述べられていることが嬉しい誤算であった。もっとも、本書の序文によれば、元々そのようなコンセプトで書かれた体系書であり、総花的な内容よりも一つの立場から書かれた内容のほうが興味が湧き記憶にも残るという著者の教訓によるとのことである。したがって、初学者には理解できなかったり是非を判断できないような著者の自説もあることに留意しておく必要があり、標準レベルの知識の習得を重視するのであれば、もっと他に適した体系書があるかも知れない。次に、著者が自説を展開しているのはよいが、折角の自説の展開が中途半端に終わって詳細を自身の論文の参照に委ねている箇所がいくつかあったことは残念であった。そのような作業は普通の読者にとっては容易ではないので、(頁数の増加によって相応に価格が上がることになっても)できるだけ本書で完結してほしいところである。冒頭で中山信弘著「特許法」の内容を薄くした感じの体系書であると述べたが、同書にはないような記述(著者による見解や指摘)も少なくないし、薄い分だけ読みやすくもあるので、それほど多くはない特許法の体系書の1つとして、今後も改訂を続けていって欲しいと思う。
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