特許法の論点別の解説書である。令和元年の特許法の改正後に発行されたため、主として同改正(損害額の算定)に関する記述に期待して購入した。3人の著者による共著となっているが、筆頭に掲げられた著者は知的財産法の分野において著名であり、本書において主導的な役割を果たしていると思われる点も本書に関心を抱かせた。なお、誰がどこを執筆したのかは明らかにされていない。以下、気になった記述を抜粋して寸評し、最後に総評を述べる。 均等論に関して(その1)「『本質的部分』の意味については、説の対立がある」、(対立する説の一方である技術的特徴説について)「クレームの構成要件を分説したうえで、それを本質的部分と非本質的部分に分け、そのうち非本質的部分を置換するに止まることを要求するものであると理解する。条文上、素直な理解であるが、採用する裁判例は少数派であり、大合議判決である知財高大判平成28・3・25・・・・マキサカルシトール事件・・・・によって明示的に否定された」、(対立する説の他方である技術的思想説(解決原理説)について)「置換されたイ号が特許発明の技術的思想の範囲内にあるか否かを問い、それが肯定されるのであれば、(結果的に)置換された部分は非本質的部分であったことになり、逆にそれが否定されるのであれば、(結果的に)置換された部分は本質的部分であったことになると理解する。多数説であり、前掲知財高大判・・・・によって確認された」、(技術的思想説を採用すべき消極的理由、すなわち、技術的特徴説の欠点について)「クレーム中、特定の構成要件・・・・を非本質的部分とした以上は、被疑侵害者の当該要件の置換態様が特許発明と同一の技術的思想に収まる場合・・・・ばかりでなく、もはや特許発明と同一の技術的思想とはいえない場合・・・・にまで本質的部分の要件を肯定せざるを得なくなる。逆に、特定の構成要件が本質的部分であるとされてしまった場合には、その部分の変更はいかにそれが些細なものであったとしても均等は成立しないことになりかねない。しかし、発明と出願のインセンティヴを与える特許法の目的に鑑みる場合には、肝要なことは、出願された発明にかかる技術的思想に対するフリー・ライドが認められるか否かということになるはずであって、こうした硬直的な運用は疑問である」、(技術的思想説を採用すべき積極的理由について)「均等論における本質的部分の要件の抽出においては、出願にかかる技術的思想に対するフリー・ライドを防止する特許法の目的に鑑み、クレームを分説したうえで各構成要件を比較するという作業により本質的部分と非本質的部分を分別する・・・・のではなく、特定の要素をイ号に置き換えると、解決すべき課題や解決原理を異にするか否かということを判別すべきである」(26頁) 本書の上記の記述は、均等の第1要件における特許発明の「本質的部分」の意義について、技術的思想説(解決原理説)を是とするものであるが、色々と疑問がある。まず、技術的特徴説(特許による保護の根拠となる部分、すなわち、進歩性の根拠となるような特徴的部分を「本質的部分」と解する)を「条文上、素直な理解であるが、採用する裁判例は少数派であり」とある(ここで言う「条文」とは特許法のどの条文を指すのか不明であり、もしかすると「文言」の誤りかも知れない)が、必ずしもそうではなく、むしろ、地裁では主流となっているように感じられる(近年の傾向としては、東京地裁や大阪地裁は知財高裁よりもオーソドックスな判断をしている感がある)。次に、技術的特徴説の欠点についての記述において、「特定の構成要件が本質的部分であるとされてしまった場合には、その部分の変更はいかにそれが些細なものであったとしても均等は成立しないことになりかねない」とあるが、相違点が些細なものである場合は、実質的な相違点ではない、すなわち、実質的に同一であると判断される可能性があるので、そもそも均等侵害を持ち出すまでもなく文言侵害が成立する可能性があることになる(実質的な同一と均等の関係については、高林龍著「標準特許法」第7版の書評において述べたところである)。次に、技術的思想説を採用すべき積極的理由についての記述において、「出願にかかる技術的思想に対するフリー・ライドを防止する特許法の目的に鑑み」、「解決すべき課題や解決原理を異にするか否かということを判別すべき」とあるが、均等の第2要件によって解決すべき課題や解決原理の同一性は担保されるので、技術的思想説はかえって均等の第1要件を無用なものにしてしまうと考えられる。以上のように、技術的思想説を採用すべき積極的理由や消極的理由(技術的特徴説の欠点)も十分なものではなく、また、技術的特徴説を採用すべき積極的理由(中山信弘著「特許法」第4版の書評において述べたもの)に加えて、そもそも、均等論自体を採用すべき理由として、特許による保護の根拠とならない部分が多少なりとも異なるだけで特許による保護の根拠となる部分までもが保護されなくなることを防ぐことにあると考えることができることからすると、知財高裁が技術的思想説を採用しているからといって、技術的思想説が優勢であるとは必ずしも言えないように思う。 均等論に関して(その2)「一般に、当業者において置換容易か否かというときの当業者は、進歩性の要件を定める29条2項や、明細書記載要件を定める特許法36条4項1号にいう『その発明の属する技術の分野における通常の知識を有する者』を指すと考えられていることが多い。しかし、学説のなかには、29条2項の進歩性要件における当業者は開発部門の当業者を指すが、均等論における当業者と、36条4項1号の明細書の記載要件における当業者は製造部門の当業者を指すという理解を提唱するものもある。開発部門の方が製造部門よりも技術的な能力の水準が高いということが想定されている。進歩性の要件が、容易に想到しうる発明に対して特許が取得されることを防ぐ趣旨であるとすれば、主として発明を担っている開発部門の当業者を基準に容易に推考しえるか否かということを判断すべきであろう。他方で、明細書の記載要件が当該業界において特許発明を実施する者一般に対して、発明の実施を可能なものとすることを要求する要件であることに鑑みると、そこにおける当業者は製造部門の者と考えるべきであろう。均等論の場面では、特許発明の実施をなしている者がクレームを見て保護の範囲とされていると分かるか否かということが問題になっているのだから、やはり製造部門の者が基準となると理解すべきであろう」(30頁) 本書の上記の記述は、均等の第3要件についてのものであるが、当業者に対する理解の仕方には疑問がある。「当業者」と言うと、直ちにそのような人を想起しがちになるが、あくまでも発明の属する技術分野における技術常識(当業者の技術常識として参酌できるもの)さえ特定できれば足りるのであり、人という観点で捉えることは全く必要でない。したがって、実在するか否かや単数(単独)か複数(チーム)かの議論をよく目にするが、そのような区別も全く必要でない(発明が複数の技術分野に属するのであれば、それら複数の技術分野における技術常識を参酌できるに過ぎない)。そして、均等の第3要件の適否、発明の特許要件の適否、特許出願の記載要件の適否をそれぞれ判断する際に、本書の上記の記述のように区別する必要も全くない(それらの際に参酌できる技術常識には何ら違いはない)。そもそも、発明を創作する部門と発明を実施する部門とで区別したところで参酌できる技術常識にどのような違いが生じるのか不明であるし、両部門が相互に協力することも普通に行われることである。 均等論に関して(その3)「例えば、クレームには『スチールバンド』で密封と記して出願した場合(技術的には密封されれば足り、それがスチール製であることは必要なく、そのことは出願時点から当業者に周知であった・・・・とする)、樹脂製バンドを用いる被疑侵害物件に対して均等を主張しえるのか。あるいは、出願時には、『自然石』が存在していたにも拘わらず、クレームには『人工ブロック』とだけ記載して出願した場合、自然石に対しても均等成立は認められるだろうか。学説のなかには、上記の『自然石』のように出願時に存在する技術的要素に関しては、出願人がクレームに記載することが可能であったはずだから、その過誤を救うために均等論を適用することは許されないと理解する見解がある(出願時に存在する同効材に対する均等の可否というタイトルで議論される)。具体的には、そのような事情がある場合に第5要件の禁反言が成立するかということが問題となる。裁判例は分かれていたが、大合議判決である知財高判平成28.3.25・・・・[ビタミンDおよびステロイド誘導体の合成用中間体]と、その上告審である最判平成29.3.24・・・・は、出願人が出願時に容易に同効材を想定し得たという一事をもって第5要件の禁反言に該当し、均等が否定されることはないことを明言した。出願人=特許権者にとっては事前に完璧なクレームを書き上げることは困難であり、大量の出願について一律に完璧なクレームの作成を要求することは非効率である。反面、クレームを見て後から迂回策を決めればよい被疑侵害者は構造的に有利な立場にある(後出しジャンケンができる)。ゆえに、出願時に存在した技術であるからといって均等の成立が妨げられるわけではない、と考えるべきである」(35頁) 本書の上記の記述は、均等の第5要件のうち、出願時における意識的除外についてのものである。意識的除外には、出願時におけるものと出願後におけるものがあり、前者は後者に比べればマイナーな論点であったが、ビタミンDおよびステロイド誘導体の合成用中間体(マキサカルシトール)事件の知財高裁の大合議判決とその上告審である最高裁の判決によって一躍注目されるものとなった。両判決はいずれも、それまでの近年の判例に反して、出願時に特許請求の範囲に容易に記載できたのに記載しなかった発明であっても、それだけで特許請求の範囲から意識的に除外されたものとはならないと判断したのであり、最高裁の判断である以上、従わざるを得ないのであるが、疑問もある。両判決はいずれも、そのように判断した理由として時間的制約(本書の上記の記述からは分かりにくいが、出願人には迅速な出願を迫られる先願主義の下では特許請求の範囲を作成する時間的制約があり、一方、第三者には特許請求の範囲に記載された構成と均等なものを検討する時間的制約はないことである)を挙げているが、出願人と第三者の利害の観点からは一見するとその通りであるとしても、出願人同士の利害の観点(むしろ、こちらのほうが重要である)から考えてみると、時間的制約は出願人のすべてが平等に負うことであるので、結局は理由としては無意味であり、それどころか、不完全な特許請求の範囲の作成を奨励することになりかねず、それを読んで均等までを判断しなければならない第三者の負担だけが無用に増える結果となるおそれがあるのである。ただ、これはあくまでも非本質的部分(いわば些末)に限った話であるので、それほど深刻な問題とはならないのかも知れない。 均等論に関して(その4)「均等論の場合とは逆に、被疑侵害物件の構成が特許請求の範囲に記載された構成要件をすべて充足するように見え、したがって、『特許発明の技術的範囲は、願書に添付した特許請求の範囲の記載に基づいて定めなければならない』とする70条1項からは、上記被疑侵害物件は、侵害であるように思われる場合であっても、当該特許発明の明細書に記載されている発明の作用効果を奏しない場合は、このような被疑侵害物件に特許権の排他的効力を及ぼすことは、発明の実質的な価値を超えて特許権を保護することになる。したがって、実質的な価値判断として、非侵害とすべきではないかという議論がある」、「定まった考え方のある論点ではなく、いわゆる『作用効果不奏功の抗弁』を認める考え方もあるが(傍論として大阪地判平成13.10.30・・・・[エアロゾル])、既存の権利制限の手法を用いることによっても、非侵害の結論を導く余地がある。例えば、特許請求の範囲に『A+B+C』と記載されている場合、被疑侵害物件のほうで同じく『A+B+C』という構成をしても原告特許権の明細書記載の作用効果が生じないのであれば、そもそも当該特許権は、発明未完成(29条1項柱書き違反)あるいは、サポート要件(36条6項1号)、実施可能要件(36条4項1号)に違反した特許権であり、無効理由(123条1項2号又は4号)を含むから、無効の抗弁で対応できるとの考え方が示されている。もっとも、被疑侵害物件が原告特許権の構成要件を充足するように見えても、例えば、『A+B+C+D』など別の構成Dを付加して原告特許権の明細書記載の作用効果が生じなくなったというような場合は、当初の原告特許権の『A+B+C』の構成では作用効果が生じていた以上、無効理由は無いから、無効の抗弁では非侵害を導くことはできないという問題がある。そこで、作用効果不奏功の抗弁を解釈論により認めるのも一手であろう。被告製品の構成が原告特許発明の構成要件を充足していても、作用効果が生じない場合は、発明の技術的思想を利用していないといえるのであって、かかる場合にまで特許権の保護を及ぼす必要はないからである。米国では逆均等として知られる議論である(日本の均等論を前提に表現すると、クレームには該当しないが技術的思想を利用している場合が通常の均等論だとすると、逆均等は、クレームには該当するが技術的思想を利用しない場合に当たる)」(37頁) 本書の上記の記述においては、均等論との対比で論じられているが、作用効果不奏功の抗弁として知られる論点であり、均等論とは特に関連はない(逆均等という呼称は一般的には用いられていないし分かりにくい)。それはさておき、同抗弁については、これを是とした平成13年10月30日のエアロゾル製剤事件の大阪地裁の判決とその控訴審である平成14年11月22日の大阪高裁の判決があることや、均等の第2要件において最高裁は特許発明と同一の効果を奏することを要求していることからすると、結論としては是とすることで決着がついていると言える。ただ、そうすると、物の特許発明はすべて用途発明(特許請求の範囲に新規性を有しない構成とともに新たに発見した効果である用途も記載されている物の発明)に等しいものとなってしまうようにも思えるが、進歩性の根拠が構成にあるのか効果にあるのかという違いはあるので、全く等しいわけではなく、問題はない(区別する実益があることは変わらない)。 間接侵害に関して(その1)「間接侵害においては、独立説と従属説の争い・・・・はあるが、特許発明の直接実施に該当する行為もないのに間接侵害が成立するという意味での独立説は存在しない」(41頁)、「間接侵害が成立する前提として、特許発明の直接実施に該当する行為に侵害が成立していることを要するだろうか。ここでは、特許法において権利制限規定等が設けられた趣旨は多岐にわたることに配慮すべきである。そうだとすると、間接侵害が成立する前提として、特許発明の直接実施に該当する行為がさらに侵害行為であることを要する(従属説)、あるいは要しない(独立説)という図式で一律に論じるべきではない(制限規定等射程説)。すなわち、個別の制限規定等において特許発明の直接実施に該当する行為が非侵害とされる理由に注目し、その趣旨が間接侵害にまで及ぶか否かという観点で、間接侵害の成否を決定すべきである」(43頁) 本書の上記の記述における最初の一文は、疑問である。他人から依頼されたわけでもなく、自ら特許発明を実施する予定もなく、単に特許法101条各号に掲げる行為のみをした場合であっても、将来にわたってもそのような状態が続くとは限らないので、直接侵害のリスクが全くないことにはならないし、そのような行為を適法なものとする必要性もないことからすると、そのような場合にも、独立説によって間接侵害が成立し得る、すなわち、特許権者や専用実施権者の許諾を得ていなかったり、特許発明を実施する正当な権原を有しないのであれば、間接侵害は成立すると考えられるのである。なお、間接侵害の成否の判断方法については、中山信弘著「特許法」第4版の書評において述べた通りであり、本書の上記の記述とは異なる。 間接侵害に関して(その2)(独立説によれば)「特許製品の取得者は、せっかく消尽が認められたにも関わらず、他の第三者から修理用や取替用の専用部品等を調達しようとすると、その第三者が間接侵害に問われてしまうことになり、結局、全て自前で専用部品等を調達しなければならなくなる。これでは、事実上、消尽を認めた意味が失われかねない。そうだとすると直接実施者を消尽により非侵害とする趣旨は間接侵害にも及び、直接侵害が成立しないときは間接侵害も成立しない(従属説的な取扱い)と考えるのが妥当である」(45頁) 本書の上記の記述のケース(特許権の消尽によって特許権の効力が及ばない行為をするための部材の調達)については、後の寸評で述べる通り、特許権の消尽の法的な構成として生産アプローチを採用すれば、独立説によっても間接侵害は成立しないことになり、特許製品の取得者は他の第三者から修理用や取替用の専用部品等を自由に調達できるので、独立説でも問題はない。 間接侵害に関して(その3)「不可欠要件については、起草者は、均等論にいう本質的部分の要件(第1要件)と同義であると捉えていた(=それを用いることにより初めて当該発明の解決しようとする課題が解決されるような部品、道具、原料等)。しかし、均等論であれば、『a+b+c』というクレーム中、『a』が本質的部分とされても、『a』だけで保護されることはなく、被疑侵害物件『a+b’+c’』につき、第2要件〜第5要件を満たして初めて保護が肯定される。ところが、起草者のような立場では、多機能型間接侵害では、『a』が本質的部分とされると、被疑侵害物件(部品)がaだけの場合であっても保護が肯定されかねない。このような帰結は、均等論の各要件の潜脱になるうえ、『a』が公知技術の場合は、公知技術に属する製品の製造販売が侵害になってしまう」(49頁)、「不可欠要件につき、均等第1要件でいう本質的部分以上の内容を織り込んで、従来技術の問題点を解決するための方法として特許出願が新たに開示した、従来技術にはない特徴的な技術手段であることを要求すべきである。この場合、当該技術手段は単独でクレームされされていれば、直接侵害による特許の保護が可能であったものであるから、これに間接侵害の保護を及ぼしたところで不当な保護の拡張とはいえないからである」(49頁) 主観的な間接侵害(多機能型間接侵害)の要件の1つである不可欠要件(特許発明による課題の解決に不可欠な物)については、判例は一貫して特許発明の特徴的部分の生産(物の特許発明の場合)や使用(方法の特許発明の場合)に用いられる物であると解しており、(その旨の明示はないが)均等の第1要件における特許発明の本質的部分と同様の解釈をしている。特許による保護の根拠とならない部分にまで間接侵害を成立させて特許による保護を及ぼすことは特許権の効力を不当に拡張することになるので、妥当な判断である。本書の上記の記述もそのようなことを指摘するものと思われるが、「均等第1要件でいう本質的部分以上の内容を織り込んで」とあるのは、本書においては(先の寸評で述べたように)本質的部分の意義について技術的特徴説ではなく技術的思想説(解決原理説)の採用を唱えていることの影響と思われる。 特許権の効力に関して 「特許発明の実施をする権利を『専有する』(68条本文)とは、特許権が、他人が特許発明を業として実施する場合、その差止めを求めることができる排他権であることを意味するのであって、特許権者自ら発明を実施することができる権利ではない。@他人の特許発明を利用する特許発明の場合、当該他人の許諾なく自らの特許発明を実施することはできないし、A他人の特許権を侵害しない限り、特許登録せずとも当該発明を実施することができるからである。なお、72条は、上記@の利用関係を確認する規定であり、後願発明が先願発明と同一である抵触関係については、そもそも過誤登録であるのだから(39条)、これを規定していないに過ぎない」(60頁) 特許権の本質的な効力は、本書の上記の記述のような排他権ではなく独占権であり、さらには支配権でもあることは、中山信弘著「特許法」第4版の書評において述べた通りである。また、特許法は薬機法(医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律(旧薬事法))のような規制法ではなく、国の許可(特許)を得なければ発明を実施できないわけではないので、特許権や特許法上の実施権はそのような意味での実施権ではないことは当然である。 特許権の消尽に関して(その1)「特許権者により譲渡された特許製品に対する加工・修理は、特許製品の『使用』に付随するものとして、取引安全の観点から許容されるべきとも思えるが、特許権者の保護という観点からすれば、製品寿命を延長させるものとして一定の限界があってしかるべきであろう」、「2条3項1号の『生産』は、日常用語にいう生産より広く、例えばハンマーの構造に特許がある場合の打撃板の取り替えのように、部品を特許のある本体に組み合わせる行為もユーザーによって『生産』(2条3項1号)がなされたものと考えられる・・・・。そうすると、消尽の場面でも、部材の交換は、『生産』(2条3項1号)であり、したがって、消尽の範囲から一律外れるのではないかと考える向きもあるかもしれないが、大多数の学説はそのような帰結を採用しない。その説明方法として、『生産』は消尽しないことを前提に消尽の範囲を画する概念として『生産』を用いる見解とそうでない見解がある。一説として、特許権者が販売した製品についての部品の組み合わせ、取り付けに加えて、通常の修理の範囲を超えている場合に『生産』に該当するとして、加工・修理がクレームにかかる部分について行われていたとしても、一定の場合に非侵害の結論を導く立場がある(広義の生産アプローチ)。しかし、このような立場では、『生産』概念が場面ごとに異なり、もはや問題を解決する基準として機能しないことになる。消尽の場面でも、『生産』は、2条3項1号の『生産』と同様であり、『生産』に該当するかもしれないが、消尽の範囲内にあるから非侵害なのだと説明したほうがよいだろう(広義の消尽アプローチ)。もっとも、加工・修理がクレームにかかる部分について行われている場合、いずれのアプローチを採用するかは、説明の仕方の問題であり、より重要なのは、『当該特許製品と同一性を欠く特許製品が新たに製造されたと認められるとき』という、侵害の成否を決する・・・・最判[液体収納容器]の真の基準である」(73頁) 平成19年11月8日の液体収納容器事件の最高裁の判決は、特許権が消尽した特許製品(特許発明の実施品)に加工や部材の交換を施すことによって当初のものと同一性を欠いた特許製品が新たに生産されたと認められる場合には特許権の効力が及ぶと判断したので、特許権が消尽した特許製品に対する加工や部材の交換には特許権の侵害になるものとならないものがある(特許権の消尽には限界がある)ことが明らかになったのであるが、その法的な構成については明示されていないため、本書の上記の記述のような2つのアプローチが考えられるのである。そして、新たな生産か否か(直接侵害の成否)を判断するだけであれば、本書の上記の記述の最後の一文の通り、いずれのアプローチを採用しても結論に影響はないのであるが、新たな生産に当たらない(すなわち、直接侵害とはならない)部材の交換のためにその部材を生産や譲渡することが(独立説による)間接侵害となるか否かの判断においては、いずれのアプローチを採るかで結論は異なり得ることから問題となる。生産アプローチによれば、そのような部材の交換は(単なる修理であって)生産ではない(特許法上の「生産」の意義をこのように限定して解釈する)ので、そのための部材は特許製品の生産に用いる物とはならず、間接侵害が成立する余地はないことになり、消尽アプローチによれば、そのような部材の交換は生産となるので、そのための部材は特許製品の生産に用いる物となり、間接侵害が成立する余地があることになるのである。(中山信弘著「特許法」第4版の書評において述べた通り)間接侵害の成否は独立説によるべきことと、新たな生産に当たらない部材の交換のための部材を容易に入手できないことになれば特許製品に期待される本来の寿命を全うできないことになりかねないことからすると、生産アプローチを採用することは不可欠ということになる。 特許権の消尽に関して(その2)「加工・修理がクレームにかかる部分以外のところについて行われている場合に関しては見解が分かれている。例えば、特許発明がアシクロビルをクレームする物質特許であるところ、当該アシクロビルを有効成分とする錠剤を購入して溶解し、有効成分にかかる物質アシクロビルを取り出したうえ(ゆえに特許発明の対象であるアシクロビル自体は改変していない)、粉末材として、あるいは錠剤として販売する場合・・・・、特許発明が注射器の構造をクレームする物の特許であるところ、使用済みの使い捨て注射器を洗浄して再び注射液を注入し使用する行為・・・・、特許発明がエンジンをクレームする物の特許であるところ、購入した自動車が大破したり耐用期間が過ぎたので、破損していないかまだ耐用期間が残っているエンジンを取り出して、別の車に装備して使用する行為などが挙げられる。このように、具体的には、クレームの解釈で形式的にも『生産』(2条3項1号)に当たり得ない場合にも、当初に特許権者が予定しない使用であるということを理由に特許権侵害を構成することがあるかという点について、否定する考え方(狭義の生産アプローチ)と肯定する考え方(狭義の消尽アプローチ)がある」、(生産アプローチについて)「これらの場合、いずれも特許発明について生産は行われておらず、使用がなされているに過ぎない。そこで、取引の安全を重視する立場は、生産に該当する行為がなされていない限り、特許製品の使用は自由であると考える・・・・。・・・・最判[液体収納容器]は、加工や部材の交換により特許製品と同一性を欠く特許製品が新たに『製造』されたものと認められるときは、特許権の行使が許されるとの抽象論を示した。一般には本判決は生産アプローチを採用したと理解されている」、(消尽アプローチについて)「他方、特許権者の対価の回収の予定を重視して、生産がない場合であっても、特許権者が予定していないような使用が行われた場合には消尽を否定する考え方もある・・・・。もっとも、この立場でも、上に掲げた例のうち、アシクロビルについては、ルートこそ異なるが、結局、一人の患者に投与されるに止まるという点では特許権者の予定を超えるものではないので、消尽が否定されることはないと理解されている」(76頁) 加工や部材の交換が施された特許製品の部分が、特許発明の構成要件に相当しない部分である場合はおろか、特許発明の構成要件に相当する部分であっても本質的部分に相当しない場合にも、当初のものと同一性を欠いた特許製品が新たに生産されたとは認められない(生産アプローチ的に言えば、特許法上の「生産」には当たらない)と考えられる。特許による保護の根拠とならない部分にまで特許権の消尽に限界を設けて特許による保護を及ぼすことは特許権の効力を不当に拡張することになるからである(したがって、消尽アプローチは、この点からも採用し得ない)。そうすると、本書の上記の記述によるアシクロビルの例においては、たとえ錠剤として特許請求の範囲に記載されていたとしても、特許権が消尽した錠剤を溶解してアシクロビルを取り出して再び錠剤とする行為は、非本質的部分である錠剤部分に加工や部材の交換を施すものに過ぎないので、新たな生産とは認められず、特許権の侵害となるものではない。また、エンジンの例においても、たとえ自動車として特許請求の範囲に記載されていたとしても、車体のみが大破した自動車からエンジンを取り出して別の車体に装備する行為は、同様に特許権の侵害とはならない。一方、注射器の例においては、本質的部分がどこであるのか不明であるが、使用済みの注射器を洗浄して再び注射液を注入する行為が非本質的部分に加工や部材の交換を施すものに過ぎなければ、やはり同様に特許権の侵害とはならないことになる。 先使用権に関して 「先使用権の制度の趣旨については、特許権者と先使用者の公平(衡平)を図るものであると説く公平(衡平)説が通説である。しかし、ただ、『公平』というだけでは、個別の論点において制度趣旨に鑑みた帰結を論理的に導くことは困難である。そこで、近時は、以下のようにその具体化を計る見解がある(田村善之『特許権の先使用権に関する一考察(1)−制度趣旨に鑑みた要件論の展開−』知的財産法政策学研究53号137〜149、151頁(2019年))。第一に、発明と出願により公開を促すこと及び発明の実用化の双方が特許法の趣旨であることに鑑みると、先使用権の趣旨の一つは、発明者に、実施と出願の双方かどちらかを早期に選ばせるインセンティヴを与えることで、発明の実施を促進させることにあると解される(実施の促進)。第二に、先使用権の制度がない場合、特許発明に係る発明者とは別個独立に発明をなした独自発明者(79条)は将来、特許権者からの特許権侵害の責任追及をうけることを慮って実施を躊躇するか、あるいは、他者の特許権の出現を可能な限り防ごうとして先使用権がなければなされなかった出願を強いられる可能性がある。このようなことに鑑みると、特許権を取得した他者からの差止請求をおそれて無駄な出願をするという弊害を防ぐこと(過度の出願の抑止)に先使用権のもう一つの趣旨があると解される」(83頁)、「どの程度の準備があれば先使用権が認められるのか、その分水嶺が重要である。特許制度の存在によって過度に実施が躊躇われることがないようにするという上記の先使用権の趣旨に鑑みれば、事業の準備については、当該発明を実施できないのであれば無駄になる投資・・・・がなされているか否かがメルクマールになると考えられる」(85頁) 本書の上記の記述のように、先使用権の趣旨として(先願優位の原則の下での)衡平のほかにも実施の促進と過度の出願の抑止(この2つは、過度の出願を招くことなく実施の促進を図ることであると併合することができる)があると考えることの是非はさておき(結果としては、先使用権はいわゆるノウハウを保護するものとして機能しているので、非とまでは言えない)、実施にまで至っていない場合に「どの程度の準備があれば先使用権が認められるのか」は、先使用権について最大の論点となっている。昭和61年10月3日のウォーキングビーム式加熱炉事件の最高裁の判決によれば、即時に実施する意図を有していることを客観的に認識できるか否かによって判断されるのであるが、その後の判例によっても具体的な基準が定まっていないのである。本書の上記の記述のように、それまでになされた投資の多寡という経済的な側面も(先使用者にとって)重要であることは否定できないが、最も重要なことは、発生する先使用権の範囲(発明としての範囲と事業としての範囲)を適切に特定できるか否かという法的な側面であるように思われる。実施にまで至らない準備によって発生する先使用権の範囲が実施によって発生する先使用権の範囲より広くなるようなことは(衡平を欠くので)あってはならないからである。そうすると、発生する先使用権の範囲を適切に特定できるに至らない場合は、どれだけ多額の投資がすでになされていたとしても、先使用権は発生しない(できない)ことになると考えられる。 発明の定義に関して 「従来は、人の精神活動等について、自然法則を利用していないとして発明該当性が否定されると説明されていた。もっとも、人の行動がなぜ自然法則を利用していないことになるか、厳密に考えると難しい。V字ジャンプやフォークボールの投げ方も、自然法則を利用していないから特許発明に該当しないと説かれることも多いが、それらも詳細に観察すれば、浮力や摩擦力といった自然法則を利用している面は否定できないからである。むしろ、特許発明に該当しないとするより本質的な理由は、特許権により人の自由な活動を過度に制限しないことにある」(114頁) V字ジャンプやフォークボールの投げ方は、詳細に観察するまでもなく自然法則(空気による何らかの作用)が人の行動(動作)とともに課題の解決に関与していることは明白であるので、そのような場合に自然法則の利用という発明の要件を満たすためには、近年の判例の考えである「全体として」自然法則を利用するものでなければならない。そして、その判断方法については、定まったものがあるわけではないが、(中山信弘著「特許法」第4版の書評において述べた通り)課題が解決される本質的な原因が自然法則(自然の作用)にあるか否かによって判断すると、V字ジャンプやフォークボールの投げ方によって課題(前者はジャンプの飛距離を伸ばすこと、後者はボールの軌道を急に落下させること)が解決される本質的な原因は、いずれも空気による何らかの作用(発明は学問ではないので、浮力や摩擦力と特定することまでは必要とされない)にあり、人の動作はそのような自然の作用を引き起こすためのものであるから、全体として自然法則を利用するものとなり、自然法則の利用という発明の要件を満たすことになる。そして、特許法上の発明となるためには、さらに、技術的思想(の創作)という発明の要件も満たさなければならないのであるが、V字ジャンプやフォークボールの投げ方は、そちらの要件の適否のほうが問題になり得る。本書の上記の記述によれば、「自然法則を利用していないから特許発明に該当しないと説かれることも多い」とあるが、むしろ、技術(的思想)ではなく技能であるから発明に該当しないと説かれることが多いのである。技術と技能については、前者は知識として伝達できる客観的なものであり、後者は個人の熟練によって体得できる属人的なものである点で、両者は区別されるが、V字ジャンプやフォークボールの投げ方は、純粋な技能であるのかは判断が難しいところである(個人の熟練によって効果は大きく異なるが、知識として全く伝達できないものではない)。なお、本書の上記の記述の最後の一文は疑問であり、そのようなことは進歩性という発明の特許要件によって担保されている。 産業上の利用可能性に関して 「産業上の利用可能性がないという発明は、医療発明以外、殆どない。医療についても、手術する方法と医薬品とでは、置かれている状況に差違がある」、「人間を手術、治療又は診断する方法については、『産業上利用することができる』発明ではないと考えられる。生命身体の保護が特許権という財産権に優先すること、手術・治療の現場では特許権者の許諾を得る時間的余裕がないこと(切迫性)による(東京高判平成14.4.11・・・・)」、「一方、医薬品の製造業は、産業に該当し、医薬品には特許が成立すると考えられる。医薬品の使用は、医薬品という物の『実施』(2条3項1号)に該当し、特許権の効力が及ぶものの、医薬が製造され使用されるまでにはタイムラグがあるからこそ、その間に特許権者自身によって必要量が供給されたり、ライセンスがなされることを期待しうるから不都合はないからである。もっとも、そうした解釈のもとでも、医療の現場で患者を目の前に投薬しようとする医師に、ライセンスの取得や裁定許諾制度(83条、92条、93条)の利用を迫るのは、ただ煩雑であるというだけでなく、時間的な余裕を欠く。医師が医薬を調合する場合については69条3項に明文があるが、当該規定で非侵害となる場合は極めて限定されている。そこで、医療行為は産業ではない以上、医師の投薬行為は68条の『業』として行われるものではないと捉えることにより、医薬品について特許が認められたとしても、その製造については格別、医師が治療や診断に使用する行為についてまで権利が及ぶものではないと解釈すべきである」(119頁) 本書の上記の記述において、「医療の現場で患者を目の前に投薬しようとする医師に、ライセンスの取得や裁定許諾制度(83条、92条、93条)の利用を迫るのは、ただ煩雑であるというだけでなく、時間的な余裕を欠く」、「そこで、医療行為は産業ではない以上、医師の投薬行為は68条の『業』として行われるものではないと捉えることにより、医薬品について特許が認められたとしても、その製造については格別、医師が治療や診断に使用する行為についてまで権利が及ぶものではないと解釈すべきである」とあるが、これは(明示されていないが)医師が購入した医薬が特許権の侵害品であることを前提とするものと思われる(そうでなければ、特許権は消尽していることになる)が、確かにそのような場合には、医師の投薬行為は特許権の侵害となるので、医師にとっては、医療行為については特許権の侵害を恐れる必要はなくても、投薬行為についてはその恐れがあることになり(さらに言えば、医療機器の使用についても同様である)、問題である。そこで、医師の投薬行為は「業」としての実施ではないと解釈して特許権の侵害を免れるようにすべきことを提唱しているわけであるが、医療業は「産業」ではないと解釈することは可能だとしても「業」ではないとまで解釈することには無理があるように感じる。現実としては、医師しか実施者が存在しない医療行為の発明とは異なり、医薬の発明には医師以外に製造業者や販売業者という(川上の)実施者が存在するため、特許権者は特許権の侵害を問う相手方としては(人道的な観点から)医師ではなく製造業者や販売業者を選択すると考えられるので、問題が顕在化することはないかも知れないが、仮に医師が特許権の侵害を問われた場合は、通常の特許権の侵害とは異なる判断(相手方として医師を選択することの抑止力となるようなもの)をすることが裁判所には求められることになるように思われる。なお、本書の上記の記述には、誤りが2点あることを指摘しておくと、ひとつは、引き合いに出された平成14年4月11日の東京高裁の判決においては、医療行為の発明を産業上の利用可能性を有しない発明とすべき理由(傍論はさておく)として、医師の保護(医師が特許権の侵害を問われる恐れを抱かずして医療行為の発明を実施できるような措置が講じられていない現行の特許法においては、産業上の利用可能性を有しないとして特許の対象から除外していると解する以外にないこと)を挙げており、「生命身体の保護が特許権という財産権に優先すること、手術・治療の現場では特許権者の許諾を得る時間的余裕がないこと(切迫性)」は全く(傍論にも)挙げられていない点であり、もうひとつは、「医師が医薬を調合する場合については69条3項に明文がある」とあるが、同条項は医師ではなく調剤行為をする薬剤師を保護する規定である点である。 進歩性に関して(その1)「現在の主流は、引用例に周知技術等を組み合わせることがなぜ容易と考えられるのかということを論理的に示すというもの(=論理付けアプローチ)である。引用例Aと引用例Bを組み合わせると、請求項発明の技術的構成要素が全て出そろうという事例を・・・・用いて説明すると、AとBが同一分野にありさえすれば、進歩性なしとするのが同一技術分野論であったが、論理付けのアプローチはさらに一段階追加して、なぜ当業者にとって引用例Aと引用例Bを組み合わせるのが容易であるか動機付けの論証まで求められることになる(審査基準で示されている技術分野の関連性、課題の共通性、作用・機能の共通性、引用発明中の示唆等の4つは例示であり、裁判ではそれ以外の動機付けの論証が可能である・・・・)」(140頁) 本書の上記の記述においては、(先行技術調査によって発見された)「引用例Aと引用例Bを組み合わせると、請求項発明の技術的構成要素が全て出そろう」→「なぜ当業者にとって引用例Aと引用例Bを組み合わせるのが容易であるか動機付けの論証」という(膨大な数の判例によって確立された)進歩性の有無の判断方法の一部分(要部)が示されている。判例によれば、技術分野の関連性だけでは動機付けとしては足りず(当業者がAとBの存在を知る動機付けとなるに止まり、それらを組み合わる動機付けまでにはならない)、それに加えて、課題の共通性(AとBの間で課題の解決を維持したまま構成の一部を置換や転用する動機付けとなる)、作用や機能の共通性(Aの構成の一部を作用や機能が共通するBに置換する動機付けとなる)、教示や示唆(それに従ってAとBを組み合わせると所望の課題が解決されるので、AとBを組み合わせる動機付けそのものとなる(なお、必ずしも引用例中に示されているものに限られないが、出願前に示されていたことが必要である))のいずれかを見出せれば、当業者がAとBの存在を知るとともにそれらを組み合わせる動機付けがあることになるので、AとBを組み合わせて請求項発明を完成させることは(出願時の)当業者にとって(動機付けに従って)容易に想到できたことであると論証されるのである。そして、このようにAとBを組み合わせて請求項発明を完成させることは当業者にとって容易に想到できたことになると、このままでは進歩性を否定されることになるので、次の寸評で述べるように、明細書に記載された効果が当業者にとって予測できなかった顕著なものであることを出願人は主張すべきことになる。 進歩性に関して(その2)「特許庁の実務・裁判例・通説は、発明の構成が引例と近似していても、発明の構成に顕著な効果(異質の効果か同一でも著しい効果)がある場合に進歩性を認めるというものである。問題はなぜそのように取り扱うのかという点にある」、「裁判例のなかには、抽象論として、引例から発明にかかる構成を想到することが容易であるにも関わらず、顕著な効果があることを理由に進歩性が肯定される場合があることを容認する説示をなすものがある・・・・。こうした判示は、顕著な効果が構成とは独立して進歩性を基礎づける要件として機能していることに着目する見解である(独立要件説)。請求項発明の構成が従来技術より容易推考であったとしても、なお顕著な効果を見つけたことに対する報酬として特許を与える点にその特徴がある」、「他方、・・・・29条2項の条文に忠実に考えるならば、進歩性の要件はあくまでも容易推考か否かを問題にするものである。したがって、顕著な効果は容易推考を基礎づける二次的考慮として斟酌されることがあるに過ぎないことになる・・・・。この理解の下では、それほど優れた効果を発揮する構成が近くに存在したにも関わらずこれまで発明されなかったということは、当該発明が困難であることを物語ることを理由に、進歩性判断の基礎となるに過ぎないことになる」、「顕著な効果は、特許請求の範囲や明細書に記載される必要があるかどうかという問題については、両説からは以下のとおりに理解される。すなわち、独立要件説からは、顕著な効果は、特許明細書に記載されていることが必要である。一方で、二次的考慮説からは、顕著な効果は、発明が困難であったことを推認するための証拠として考慮されるにとどまるから、基本的に請求項への記載はおろか、引用例と比較した場合の顕著な効果も明細書に記載されていることまでは不要である」、「なお、顕著な効果については、最判令和元.8.27・・・・[アレルギー性眼疾患を処置するためのドキセピン誘導体を含有する局所的眼科用処方物]が・・・・説いたことが問題となる」、「この最判をして、一部に独立要件説をとったものと理解する向きがある。しかし結論を直接導く部分・・・・の読み方としては、顕著な効果についていわば原審では審理不尽であることを理由に原審を取り消したものであり、顕著な効果について特に独立要件説と二次的考慮説のいずれかを明言するものではないと思われる」(142頁) 判例においては、構成(要件の組み合わせ)を想到することは(出願時の)当業者にとって容易であったと判断された発明の進歩性の根拠となる効果(当業者にとって予測できなかった顕著な効果)は明細書に記載されているものに限られることを一貫して要求していることや、ドキセピン誘導体を含有する局所的眼科用処方物事件の最高裁の判決も特にそのことを否定するものではなかったことからすると、独立要件説を是とすることで問題ないように思われる。構成を想到することは容易であったのにそれによる効果を予測することは容易でなかったとすることは、一見すると整合しないことのようにも思えるが、用途発明においては、構成には進歩性どころか新規性も認められないのに新たな効果(用途)を発見してこれを構成要件に追加すれば新規性と進歩性を認められるのであるから、それと同様のこと(実質的には効果も構成要件とする発明)であると考えることができる。 サポート要件に関して(その1)「裁判例によれば、サポート要件を充足する明細書の記載の仕方には、『技術的意味型』、『具体例型』、『相補型』の3通りがある(劉一帆『特許法における記載要件について−飲食物に関する発明の官能試験を素材として』知的財産法政策学研究54号106〜107頁(2019年))」、「@技術的意味型(演繹型):クレームによって特定されている範囲において所望の効果が発揮されることの技術的な意味が明細書において説明されており、それを当業者が理解しうる場合・・・・。例えば、課題の解決や目的の達成等が可能となる因果関係またはメカニズムが明細書に開示されているか、当業者にとって明らかである場合がこれに当たる・・・・。因果関係、メカニズムによる解明が十分に開示されている場合には、必ずしも具体例が開示されていることはサポート要件の充足に必要ではない」、「A具体例型(帰納型):具体例(=実施例)が明細書に示されており、そこから当業者が技術常識に従って、クレームによって特定されている範囲において所望の効果が発揮されると理解しうる場合。この具体例型でサポート要件を充足するためには、とりわけクレームの技術的範囲の境界付近を中心に十分な実施例と比較例(クレームの範囲外で所望の効果を達成しえないことを示す具体例)があることが必要となる」、「B相補型:具体例型と技術的意味型は必ずしも相互排斥的なものではない。裁判例では、明細書によって因果関係やメカニズムが示されており、その記載を実施例が支えている場合に、その両者を考慮してサポート要件の充足を認めるものがある」(151頁) 本書の上記の記述は、著者の見解ではなく他者の論文の紹介であるが、参考になる。サポート要件の適否についての判例(近年は増加傾向にあり、進歩性に次いで多いものとなった感がある)を読んでいれば自ずと気付くことではあるが、実際に分類を試みたことはなかった。 サポート要件に関して(その2)「サポート要件と実施可能要件の区別については、両者は表裏一体のものであり区別がつかないとする見解(『表裏一体説』)と、両者は区別されるものであると説く見解(『区別説』)が対立している。学説では表裏一体説が通説といってよい状況であったが、裁判例においては、次第に両者に違いがあることが明らかになってきているように見受けられる」(152頁) サポート要件と実施可能要件は、いずれも特許請求の範囲に記載された発明(に含まれる実施の形態)のすべてについて満たさなければならない点で一致する(これは、保護に見合った開示を求めるという同じ趣旨によるものである)が、前者はそれらの発明によって課題を解決できることを当業者が理解できるような明細書の記載を要求するものであり、後者はそれらの発明を当業者が容易に実施できるような明細書の記載を要求する点で役割を異にしており、一見すると、一方を満たせば他方も満たすような表裏一体の関係にあるようには見えない。しかしながら、課題を解決できることを当業者が実際に実施しなくても(明細書の記載のみで)理解できるためには、結局は実施可能要件を満たすレベルの記載が必要となる場合もあり得るし、その場合は両要件を満たす根拠となる記載は重複する(共用できる)ことからすると、必ずしも表裏一体の関係にないとは言えないことになる(ケースによるということである)。 実施可能要件に関して 「従来、大方の漠然とした理解としては、クレームの全範囲にわたって実施可能とする必要があるとされてきた。しかし、これは明らかな誤謬である。なぜならば、利用特許にかかる発明の実施に対して基本特許権の保護が及ぶからである(72条)。定義上、利用特許にかかる発明は、基本特許の明細書に実施可能として記載されてはいけないものである(もし記載されていたのであれば、利用発明は新規性を失っている)。そうだとすると、この利用発明の例は、特許権の保護範囲の全てにわたって実施可能要件を満たす必要はないことを如実に示している」、「実施可能要件はクレームとは無関係に、明細書に記載された技術的思想を当業者が容易に実施することができるのであれば充足と考えてよい(技術的思想一個についてどこかで一例でも実施可能であればよい)。そこに記載された技術的思想がクレームに対応しているか否かはサポート要件で判断すれば足りる。サポート要件の充足の仕方が具体例型である場合には、結局、クレームの全範囲にわたって実施可能であることが多いといえようが、技術的意味型である場合には、クレームの全範囲にわたって実施可能である必要はないことになる」(153頁) 本書の上記の記述の最初の一文において、「クレームの全範囲にわたって実施可能とする必要があるとされてきた」との指摘はその通りであるが、それは「漠然とした理解」によるものではなく、判例の一貫した考えによるものである。そして、続けて、そのように実施可能要件を捉えることは誤りであるとも指摘し、その理由を述べているが、理由とされるものを理解することができない(善解を試みることも困難である)。したがって、その点の評価は控えるが、クレームの全範囲(特許請求の範囲に含まれる発明の実施の形態のすべて)にわたって当業者が容易に実施できなければ実施可能要件を満たさないとされていることについては、問題がないわけではない。特許請求の範囲が機能的クレームの形式で記載されている場合の特許発明の技術的範囲は、判例によれば、同じ機能を果たす構成のすべてを含むのではなく、そのような構成のうち、明細書や図面の記載、特許出願時における当業者の技術常識を参酌すれば(容易に)実施できるものに限って含むとされているので、これとの整合性が問題となる。機能的クレームの場合は、そのように限定して解釈するということは、当業者が容易に実施できる実施の形態(実施例)が1つでもあれば常に実施可能要件を満たすことになるので、機能的クレームでない場合との不整合が生じるのである。この不整合を解消するには、機能的クレームでない場合も機能的クレームの場合と同様に限定して解釈する(そうすると、結果的にではあるが、本書の上記の記述と同様に、実施可能要件は当業者が容易に実施できる実施の形態が1つでもあれば満たせるものになる)か、機能的クレームの場合も機能的クレームでない場合と同様に限定しないで解釈する(実施可能要件違反の無効理由があることにする)かのいずれかによらなければならないことになるが、前者を選択するとあたかも実施可能要件を満たさせるために特許請求の範囲を限定して解釈することに等しくなってしまう(限定が必要であれば訂正をすればよい)ことからすると、後者を選択することが妥当であると考えられる。なお、審査においては、機能的クレームの場合であっても、そのように限定して解釈されることはないが、当業者が容易に実施できない実施の形態を見出せない限り実施可能要件違反で拒絶できないので、当業者が容易に実施できる実施の形態が1つでもあれば(とりあえず)特許を受けることができる可能性があることになる。 過失の推定に関して 「裁判例を見る限り、原則として侵害者には過失ありと認定される。弁理士に相談した場合はおろか(大阪地判昭和59.10.30・・・・[手提袋の提手])、侵害訴訟の1審判決における非侵害の判断を信じたのだとしても過失が否定されることはない(東京高判平成6.1.27・・・・[二人用動力茶摘採機])。このような厳しい推定が認められている理由は2つある。特許権の存在は、特許公報により公示されており(66条3項)、制度上、第三者の予測可能性は担保されている。他方、過失を否定したところで、いずれにせよ侵害者は実施料額相当の不当利得返還義務があることを考えると、これらの判決に特に異を唱える必要はない(むしろ、102条4項の軽過失により102条3項の賠償額を越える分につき減額がなされるべきか否かを争点とすべきであろう)。以上のように、特許権の内容が特許公報により公示されていることが過失推定の根拠であるとすると、特許権の登録後、事務手続上、特許公報が発行されるまでには若干のタイムラグがある。この間に行われた侵害行為に対する過失の判断が問題となる。出願公開がなされ公開公報が発行された後、特許が付与されたというパターンで考えると、出願公開された特許出願が全て特許付与に至るわけではない以上、特許権が存在しているということの公示はなされていないといわざるをえないから、特許の付与後、特許公報発行前には、103条の過失の推定は働かず、具体的な過失の認定が必要となるというべきではないかと思われる。65条1項の補償金請求権が、悪意ないし警告を要件としている以上、法は出願公開があるというだけで自動的に第三者に公開公報の調査義務を課しているわけではないことは明らかである。過失を推定し、第三者にその意味での調査義務を課すことを正当化するためには、さらに特許公報により権利が公示される必要があると解される」(165頁) 本書の上記の記述のように、かつては確かに特許公報の発行が過失の推定の根拠となっていたが、高林龍著「標準特許法」第7版の書評において述べた通り、近年の判例によれば、単に特許権者の保護を根拠とするものとなり、故意を証明できた場合を除き、過失の推定は覆滅され得ないものとなっている(実質的にみなしと考えてよい)。したがって、特許公報の発行を現在でも過失の推定の根拠としている本書の上記の記述は、当を得ないものである。 損害額の算定に関して(その1)「102条3項の損害賠償額は、102条1項・2項と異なり、特許権者が不実施である等のために売上減退による逸失利益が認められない場合にも、常に賠償を請求しうる制度として理解されていた。したがって、一部、逸失利益が認められない場合、換言すれば、侵害製品の売上げの一部について102条1項の推定の覆滅が認められた場合、その部分について3項の損害賠償を請求しうるのは当然と考えられていた・・・・。102条2項についても推定の覆滅が認められる場合には、同様の取り扱いがなされることになる・・・・。もっとも、最近の裁判例では、逸失利益で損害額を算定するのが本則であり、3項の損害賠償額の算定は便法に過ぎないから、102条1項において推定の覆滅が認められた場合には、本来の損害額である逸失利益が算定されたのであるから、便法の3項が適用される余地はないと理解する裁判例も現れていた(以下、『否定説』という。・・・・)。現在ではこちらが裁判例の趨勢となっている。102条3項は逸失利益では説明できない規範的な損害概念を認めたと理解するか否かによって決せられるべき問題であるが、否定説だと、特許権者が不実施であれば(100%推定が覆滅されているのと同義)102条3項の賠償が認められるのに、実施していると、推定が覆滅された部分(例えば90%)について102条3項の賠償が認められないという不均衡を合理的に説明することが困難なように思われる(田村善之『逸失利益の推定覆滅後の相当実施料額賠償の可否』知的財産法政策学研究31号1頁(2010年))。こうした反対説も踏まえて、裁判実務になにがしかの変化を与えるべく、2019年改正102条1項2号は、102条1項1号の推定が認められなかった場合でも3項による敗者復活を認めるため、実施能力を超えているところ(『実施相応数量(1号に定義)を超える数量』)や102条1項1号括弧書きにより推定が覆滅しているところ(『特定数量(1号に定義)』)についても、『特許発明の実施に対し受けるべき金銭の額に相当する額』(3項の金額)が認められるべきことを明らかにした。もっとも、この改正は、賛否両論があるなかで妥協的な文言を採用しているので、その趣旨が定かではないところがある。第一に、102条1項2号は『損害の額とすることができる』と定めている。かりに『特許権者が・・・・請求できる』と定められていたのであれば特許権者の権利なので義務的であるが、『損害の額とすることができる』であれば裁判所に裁量を認める趣旨であるようにも読める・・・・。しかし、推定を否定する括弧書き(後述)が存在する以上、反対解釈として、この括弧書きが満たされない場合には義務的に復活という解釈もありえよう。第二に、102条1項2号括弧書き『(特許権者又は専用実施権者が、当該特許権者の特許権についての専用実施権の設定若しくは通常実施権の許諾又は当該専用実施権者の専用実施権についての通常実施権の許諾をし得たと認められない場合を除く。)』の意味は何かということが問題となる。起草者は、特許発明が売上げに寄与していない分について復活を認めない趣旨であると理解しているようである(そのような部分については、合理的な当事者は実施料を算定する対象に含めないだろうと読むのである)。しかし、このような解釈は条文の文言に合わない。また、特許発明の寄与度を測定するには、結局、侵害がなかったとすれば、侵害製品の需要者のうちどの程度の割合が特許権者の特許発明の実施品に向かうのかという問題設定をすることになるはずであり、そうだとすると、第三者の競合品との比較、侵害なかりせば侵害者が製造販売していたと想定される非侵害製品との比較など、一般の推定の覆滅の問題(こちらは『特定数量』の問題として敗者復活を認める趣旨であったはずである)と分離困難となり、敗者復活を認めるか否かの線引きをなすことができなくなる。ゆえに、採用し得ない読み方といえよう。寄与分は相当額において参酌すれば足りる。結論として、この括弧書きは、特許権者と専用実施権者が並存する場合、いずれが賠償を求めうるかを明らかにするだけの趣旨と理解するほかないのではないか。なお、2019年改正では、102条1項1号に関し、一部推定の覆滅後も実施料賠償がありうる旨を明定するにいたったが、そもそも推定の覆滅が条文上規定されていなかった2項に関しては、裁判例に委ねる趣旨で何も規定を置いていない。102条1項1号の推定と別異に取り扱う理由はなく、同様の処理とすべきであろう」(172頁) 本書が発行された当時は、特許法102条1項(旧1項)において推定の量的な覆滅によって控除された数量分の侵害品の譲渡に対して別途に実施料相当額の損害賠償請求をできるか否かという論点について、令和元年の法改正(新1項)によって結論としては(近年の判例に反して)できることで決着していたのであるが、その理由が理解できずに苦心していた(当然のことを確認的に規定したものではなく、規範的なもの、すなわち、特許法によって創設されたものであると強引に納得することすら考えた)。そのため、本書にはそのような状態を解消してくれることを大いに期待したのであるが、その期待は叶わなかった。まず、本書の上記の記述には「102条3項は逸失利益では説明できない規範的な損害概念を認めたと理解するか否かによって決せられるべき問題である」とあるが、本当に実施料相当額の損害は規範的なものか否かで決せられる問題なのか理解できない。また、「否定説だと、特許権者が不実施であれば(100%推定が覆滅されているのと同義)102条3項の賠償が認められるのに、実施していると、推定が覆滅された部分(例えば90%)について102条3項の賠償が認められないという不均衡を合理的に説明することが困難なように思われる」とあるが、そのような消極的な理由だけでは納得できない(推定の量的な覆滅が大きいために損害額が実施料相当額を下回るのであれば、実施料相当額の損害を選択的に主張すればよい)。さらに、「この改正は、賛否両論があるなかで妥協的な文言を採用している」とあるが、肯定説を採りながら否定説も完全には排除していないというのもおかしなことである。以上のように、本書が令和元年の法改正の理由を理解する一助となることはなく、その後に(中山信弘著「特許法」第4版の書評で述べたように)何とか自力で解決するに至ることとなった。 損害額の算定に関して(その2)「『当該特許権又は専用実施権を侵害した者との間で合意をするとしたならば』という文言には、制裁的な要素はないことを確認するという以上の意味は持たせるべきではない。したがって、侵害者が絶対に何%以下でない限りライセンス契約に応じないという方針を採用していた場合、これを理由に当該%を相当額としてしまうと、侵害者の言い値での強制実施許諾を認めることになる。くわえて、そのような主張は、侵害者は実施料賠償が必要な侵害行為に及んでいることと矛盾する(支払いたくないのであれば侵害行為に及ばなければ良かった)。ゆえに実施料に対する実際の侵害者の希望は参酌すべきでないと考える。『侵害をした者』というのはあくまでも合理的に想定しうる架空の存在であると解すべきである」(176頁) 本書の上記の記述は、令和元年の法改正によって新設された特許法102条4項についてのものであるが、「『当該特許権又は専用実施権を侵害した者との間で合意をするとしたならば』という文言には、制裁的な要素はないことを確認するという以上の意味は持たせるべきではない」との考えは疑問であり、その文言の前に「当該特許権又は専用実施権の侵害があったことを前提として」という文言があることからすると、制裁的な要素があることは明らかである。特許権者や専用実施権者と侵害者との間の合理的な示談交渉(本書の上記の記述の通り、合理的に想定される架空のものである)においては、特許権者や専用実施権者は侵害者に対して(受け入れなければ訴訟を提起することを示唆して)制裁を加味した割高な実施料相当額を要求するであろうし、侵害者は(訴訟となった場合のコストと比較考量して)ある程度の割高な実施料相当額の支払いを受け入れざるを得ないと考えられるからである。そして、このように「合意」を要件としたので、あまりに割高な実施料相当額となることは抑制されることになるが、いずれにしても、割高ということは制裁にほかならない。 損害額の算定に関して(その3)「特許発明を実施する部分が侵害者の製品や権利者の製品の一部に止まる場合の102条1項の推定に関しては、裁判例では、実施部分の製品全体に対する『寄与率』ないし『寄与度』を算定して按分するという取扱いがなされることが少なくない・・・・。しかし、実施部分が製品の一部であり、侵害者の全需要者のなかで、侵害部分に着目しているために、侵害行為がなければ侵害製品ではなく、特許製品を購入する者の割合が60%いるという場合に、寄与率は60%であると考えるのであれば、これは因果関係を肯定しうる割合を算定していることにほかならない。そして、因果関係の覆滅の責任を侵害者に課している102条1項但書きを無にしないためには、この場合の非寄与率を主張、立証していく責任は侵害者にあると考えるべきであろう・・・・。最近では、そもそも寄与率なる概念を用いることなく、端的に102条1項の推定の覆滅の問題と捉える裁判例も現れている・・・・。理論的に正当な取扱いといえる」(176頁) 特許法102条1項においては特許発明の寄与率を考慮する必要性がないことは、本書の上記の記述の通りであり(高林龍著「標準特許法」第7版の書評でも述べた)、そのような裁判例も現れているとの指摘(元々は同項においては考慮されるものではなかったので、元に戻りつつあるのかも知れない)は好ましいことである。 損害額の算定に関して(その4)「102条2項に関しても、かつては、実施品が侵害製品の部分に過ぎない場合の裁判例の取扱いの趨勢は、やはり『寄与率』を勘案するというものであり・・・・、この『寄与率』なるものは・・・・『侵害の行為により利益を受けている』という推定の要件の問題であるから特許権者が証明責任を負っていると理解する判決が多かった。しかし、最近では、推定の覆滅の問題と捉えられるようになっている・・・・。102条2項をして逸失利益を推定する規定だと捉えれば、競合品が存在する場合の推定の(一部)覆滅の問題となり、発明の実施部分が特徴的であり、その部分がなければ誰も競合品を買わないという心証に揺らぎがないのであれば、利益全額について推定を維持してよく、あとは心証のとれた限度で、推定を覆滅していくという過程を辿るべきであろう。さもないと、逸失利益における因果関係の証明が困難であったために導入したはずの2項の推定の要件において、因果関係と同様の証明が要求されることになりかねず、同項の趣旨に悖る。近時の裁判例の取扱いをもって是とすべきである。条文の読み方としては『侵害の行為により利益を受けているとき』とは文字通り、侵害行為=製造、販売などにより利益を受けているときを意味しており、特に侵害でない場合に比して侵害により追加的に受けている利益とするものではないと解すれば足りる」(152頁) 本書の上記の記述によれば、特許法102条2項における特許発明の寄与率の考慮については、近年の判例である推定を量的に覆滅する事由とすることを是としているが、それ自体については問題はないのであるが、同じく近年の判例である同条1項と同様に推定を量的に覆滅する事由との関係を明確にしておきたいところである。仮に、特許発明の寄与率は後者の事由(同条1項と同様に推定を量的に覆滅する事由)に含まれるものと考えるならば(本書の上記の記述は、そのように考えているようである)、同項と同様にそもそも特許発明の寄与率なる概念を持ち出す必要性はないことになる。そうではなく、侵害の行為による利益の額の推定(侵害品の販売による利益の額そのものとの推定)を量的に覆滅するものとして、後者の事由とは別異のもの(覆滅する推定を異にするもの)と考えるならば、一定の必要性を見出すことができることになる。高林龍著「標準特許法」第7版の書評で述べたが、特許発明の寄与率なる概念は、元々は侵害の行為による利益の額の解釈として、侵害品の販売による利益の額そのものを意味するのではなく、そのうちの侵害の行為すなわち特許発明の実施が寄与した額を意味すると解した結果、生み出されたものと考えられることからすると、後者の事由とは別異のものであると解することが正解である。なお、いずれも推定を量的に覆滅する事由である特許発明の寄与率と後者の事由を明確に区別すべき理由としては、令和元年の法改正によって同条1項において推定の量的な覆滅によって控除された数量分の侵害品の譲渡に対して別途に実施料相当額の損害賠償請求をできることが(確認的に)明文化されたことに倣って同条2項においても後者の事由による推定の量的な覆滅によって減額された金額分の利益に対しては別途に実施料相当額の損害賠償請求をできるのに対して、特許発明の寄与率によって減額された金額分の利益に対しては別途に実施料相当額の損害賠償請求はできないという点で、法的効果に大きな違いがあるからである。 損害額の算定に関して(その5)「侵害された特許権に専用実施権や独占的通常実施権が設定されていた場合、侵害者が侵害した特許権が一つであることに変わりはなく、・・・・複数の特許権侵害の場合と異なり、102条に関する取扱いで侵害者を特に不利に取り扱う理由に乏しい。そして、102条1項1号の逸失利益や2項の侵害者利益の推定に関しては、専用実施権者等のみが実施している場合には、特許権者は不実施ということで、1項1号に関しては条文上、2項に関しては裁判実務上、いずれにせよ推定を受けうるのは専用実施権者等のみである(双方実施している場合には・・・・共有と同様に処理することになる)。ただし、専用実施権者等に対して認められる推定額から特許権者に対して支払わなければならないはずであった実施料額は控除すべきである・・・・。残るは、102条3項の相当実施料額賠償であるが、先に述べた理由により一個の特許権を侵害しているに止まる侵害者に対して二重の負担を強いる理由はないから、専用実施権等が設定されている場合、3項の相当実施料額の賠償を請求することができるのは、専用実施権者等に限られると解すべきであろう・・・・。このように解釈したとしても、特許権者は、専用実施権者からの約定実施料額の減収分があれば、それを民法709条の逸失利益として損害賠償請求しうる」(178頁) 本書の上記の記述において、(特許権者と専用実施権者の)「双方実施している場合には・・・・共有と同様に処理することになる」とあるが、明らかに誤りである。この場合の特許権者による実施は専用実施権者から許諾を受けた通常実施権に基づくものであるので、独占権を専用実施権者と共有しているように扱うことはできないからである。なお、この場合に特許権者と専用実施権者が市場において競合関係にあれば、特許権者による実施は専用実施権者の損害額の推定を量的に覆滅する事由となり得る。また、「3項の相当実施料額の賠償を請求することができるのは、専用実施権者等に限られると解すべきであろう」とあるが、これも疑問である。同項による実施料相当額の損害賠償請求は(事後的に)通常実施権を許諾したと仮定するものであるが、専用実施権者による通常実施権の許諾(すなわち、支配権の行使)には特許権者の承諾が必要であることからすると、支配権については特許権者と専用実施権者が共有しているように扱うことができるので、特許権者も(専用実施権者と按分した)実施料相当額の損害賠償請求をできると考えられるからである。特許権者と専用実施権者が存在する場合の損害賠償請求についてまとめると、@特許法102条1項や2項を適用して損害賠償請求できるのは専用実施権者のみであり、その場合に特許権者は侵害の行為がなければ専用実施権者から得られた約定実施料額(専用実施権の侵害による損害額の算定において控除される)について民法709条のみに基づいて損害賠償請求でき、A同条3項を適用して損害賠償請求できるのは専用実施権者のみならず特許権者もである。 損害額の算定に関して(その6)「特許権が共有にかかる場合、各共有者は侵害者に対して自己の有する持分権に基づいて損害賠償を請求することができる。その場合、102条1項1号や2項に関しては、侵害された特許権が共有の場合にも、侵害者が侵害した特許権は一つであることに変わりはなく、共有特許権者各人について認めるべき推定額は、最終的には1項1号や2項で推定されるべき額を何らかの形で按分した額ということになろう。按分の割合に関しては持分によるという見解もあるが、持分権の侵害と因果関係を有する損害の額は各共有者毎に様々であるから、単純な持分権の割合で賠償額が決まるわけではない。例えば、実施している共有者と不実施の共有者がいる場合には、前者が100%、後者が0%ということもありえる・・・・。また、共有者間で、かたや製造、かたや販売と業務分担をしている場合には利益率に応じて賠償を按分すればよいだろう・・・・。102条3項に関しても、全員が不実施である場合などには、持分の割合に応じた賠償を認めるほかないが、少なくとも一部に実施者がいる場合には、実施状況に鑑みた按分が必要となる。例えば、共有者の販売地域が異なるなどのために、侵害により奪われたのは共有者のうち誰の需要なのかがわかるような場合には、その者のみが実施料相当額の賠償を請求しうると取り扱うべきであろう。同様に、不実施共有者を除いた残りの3人の共有者のみで侵害された需要を満足することが可能であることが明らかにされたような場合にも、3人の共有者のみが1項1号の逸失利益、2項の侵害者利益の推定、あるいは3項の相当実施料額の賠償を受けることができ、不実施共有者は3項を含めて何ら賠償を受けることができないことになると解される」(180頁) 特許権を共有している場合の損害賠償請求については、判例においても未だに明確な基準が定まっているとは言い難い状況であるが、最も重要なことは、本書の上記の記述において、「侵害された特許権が共有の場合にも、侵害者が侵害した特許権は一つであることに変わりはなく」とあるように、あたかも各共有者ごとに独立した特許権があるのと同じような結果(侵害者にとって複数の特許権を侵害したのと同じような過大な損害額が算定される)となることは避けなければならないという基本的な原則である。また、各共有者ごとに異なる損害額の算定方法を適用(併用)できるのかということも問題となる。近年の判例によれば、特許法102条2項(おそらく1項も)と3項については、不実施の共有者が存在する場合に、不実施の共有者の持分の割合に応じた実施料相当額の分を推定の量的な覆滅によって減額しており、併用を是としているが、両者は前提を異にする(前者は侵害の行為がなかった状態を想定し、後者は侵害の行為が実施の許諾を得て行われた状態を想定する)損害額の算定方法であるので二重規範となるように思えるし、侵害者には不利益はなくとも(基本的な原則は満たしている)、損害額を減額された共有者の不利益についてはどのように正当化すればよいのであろうか(特許権の共有を選択した以上、甘受すべき不利益なのかも知れないが、そもそも、不実施の共有者は他の共有者の同意を得なければ他人に実施を許諾できないことからすると、不実施の共有者には常に持分の割合に応じた実施料相当額の損害が生じるのかは疑問である)。同条1項と2項については、前提を異にせず二重規範とはならないので、その点で併用の問題はなく、共有者間で商品に競合関係がある場合は、互いの商品の存在は推定を量的に覆滅する(侵害品の需要を奪い合う)事由となることにより、共有者間で商品に競合関係はなく共同関係がある場合(本書の上記の記述の例のように、共有者間で製造と販売を分担しているような場合)は、利益率に応じて按分することにより、それぞれ基本的な原則も満たされることになる(なお、共有者間で商品に競合関係も共同関係もない場合は、いずれかの共有者の商品は侵害品との競合関係もないことになるので同条1項や2項を適用できない)。そうすると、本書の上記の記述において、「共有者の販売地域が異なるなどのために、侵害により奪われたのは共有者のうち誰の需要なのかがわかるような場合には、その者のみが実施料相当額の賠償を請求しうると取り扱うべきであろう。同様に、不実施共有者を除いた残りの3人の共有者のみで侵害された需要を満足することが可能であることが明らかにされたような場合にも、3人の共有者のみが・・・・3項の相当実施料額の賠償を受けることができ、不実施共有者は3項を含めて何ら賠償を受けることができないことになると解される」とあるが、近年の判例に反するし、実施料相当額の損害賠償請求をするには他の共有者の同意を必要とするとの考えからしても、他の共有者を差し置いて特定の共有者のみが実施料相当額の損害賠償請求をできるかは疑問である。 特許異議の申立てに関して 「平成6年特許法で特許付与後異議申立制度が設けられたが、一度成立した特許権を無効にする点で無効審判制度と重複している等の理由により、平成15年法により、無効審判を原則として何人も請求しうるとする改正と共に異議申立制度は一度廃止された。しかし、無効審判請求件数はそれほど増加せず、質の高い特許権を確保するという点で従前異議申立制度が果たしていた役割が消失したともいえる状況であった。そのため、平成26年特許法で同制度が復活された」(191頁)、(特許無効審判について)「2003年改正では、付与後異議申立て(何人も請求可能)廃止に伴う改正がなされ、・・・・原則として何人も無効審判を提起できるとする一方、冒認出願や共同出願違反については、利害関係人のみ請求できるとされた。そのため、特許権者と競業していない者や個人による請求も可能・・・・であり、(冒認・共同出願違反以外の誰でも請求できる無効事由については)いわゆるダミーによる請求が常態化していた。そこで、2014年特許法改正は、付与後異議申立制度(誰でも申立可能)を復活させる代わりに、無効審判については原則として利害関係人のみ請求できることとし(123条2項)、何人も申立てできる異議申立てと棲み分けを図った」(194頁) 本書の上記の記述の前半と後半とで、特許無効審判に吸収されて消滅した特許異議の申立てが復活した理由について異なった記述となっている(前半では和暦を用いているのに後半では西暦を用いているところからすると、執筆者は異なるのかも知れない)。前半で述べられている理由は立法者の見解として知られているが、後半で述べられている理由こそが本当の理由ではないかと当初から感じていた。不適法な特許権を遡及的に消滅させる手段を特許無効審判に一本化したことは一見すると合理的ではあったが、何人も申立てをできる(利害関係は必要でない)という特許異議の申立ての大きな特徴を引き継いで何人も請求できることとしたため、その点は問題を生じかねないものであった。特許権者にとって特許無効審判の請求に対応することは大きな負担であるので、利害関係人からの請求ならまだしも、利害関係を有さず素性も知れない者からの請求(1回だけとは限らないし、また、単に無用な請求に止まらず、いわゆるパテント・トロールのような和解金目当ての請求もあり得る)は殊更に避けたいことである。しかも、特許無効審判は特許権の消滅後も(損害賠償請求や不当利得返還請求から免れるために)請求できるので、そのようなリスクを長きにわたって抱えることにもなるのである。そして、やはりと言うべきか、ダミーによる請求が常態化することとなり(ただし、ダミーは実際には利害関係人の代理人である場合が多いが、特許権者にとっては素性の知れない厄介な請求人であることは変わらない)、以前のように利害関係を有さない者からの請求を短い期間(特許掲載公報の発行日から6月)内だけに封じ込めるべく、何人も申立てをできる特許異議の申立てを復活させて特許無効審判を利害関係人のみが請求できることに戻したと考えられるのである。 以上、気になった記述を抜粋して寸評を述べたが、最後に総評を述べる。まず、本書を購入した最大の目的であった令和元年の法改正(損害額の算定)に関する記述からは特に得るものがなかったことは残念であった。しかしながら、そのようなことはどうでもよくなるほど、他の記述からは思いがげず多くの収穫を得ることができた。寸評からも分かる通り、様々な論点について、著者の見解に大なり小なり疑問や不足を感じたことを契機として、(説得力のある反論や補足をするために)あらためて考えさせられ、それによる新たな発見(気付き)が多かったのである。次に、内容に関することではないが、本書の読者として弁理士はあまり想定されていないように感じられたことが気になった。本書の序文によれば、「特許に関わる広い意味での法曹の実務家を主たる読者層として想定し」とあるが、「本書が、特許に関わる弁護士や、訴訟に関わる企業法務部・知財部員に広く読まれるようになれば、著者としてこれに勝る喜びはない」とあるし、いずれにしても、弁護士や司法試験の言及は多いが(特許に関わるどころか専門家たる)弁理士の言及がほとんど見当たらないのである。訴訟において争点となるような特定の論点に絞った解説書であるので、訴訟に役立つことが念頭にある影響かも知れないが、弁理士も少なからず訴訟に関与するし(行政訴訟には代理人として、民事訴訟には補佐人として、弁護士なしで関与することが可能である)、マーケット(本書の売上げ)の観点からも弁理士を軽視できないはずなのである。
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