特許法の体系別の解説書である。特許法の体系書で唯一「入門」を謳っている希少性と第2版という目新しさ、そして、馴染みのない著者陣ということも後押しして、お手並みを拝見しようと購入した。ただ、共著より単著のほうが一貫性があるし、評価が一著者に帰する点(商標の機能に似ている)でも好ましいので、本書は分担が明示されてはいるが、いずれかの著者による単著であることが望ましかった。以下、気になった記述を抜粋して寸評し、最後に総評を述べる。 特許制度の是非に関して 「特許制度の設営には、実はさまざまな社会的コストを要する。例えば、発明を用いた製品やサービスを提供しようとする事業者にとっては、特許権の行使によってそれが制約されること、そしてその結果、他の技術の利用を強いられることが負担となる。また、当該事業者の顧客は、特許権者の設定した高い独占価格を支払わないと、そのような製品・サービスを享受することができない。さらに政府は、特許庁や知財高裁等に有限の人的資源を割り振るという設営コストを負っている。特許制度によって恩恵を受けている特許権者自身についても、特許権の取得・維持・行使のために、特許制度がなければ支払う必要がない費用をかけていることも見逃せない」、「では、このような諸々のコストをかけてまで、特許制度を維持する必要はあるのだろうか」、「主流の考え方は、社会に何らかのメリットをもたらすための手段として特許制度を機能的に捉えるものであり、これは帰結からの公的正当化ということができる。ここで、特許制度によりもたらされる社会的メリット(特許法の目的)についてもまたさまざまな見解があるが、このうち最も支持を得ているのは、発明とその公開を促進することで、産業を発達させるというものである(インセンティブ論)。すなわち、特許権という経済的な誘引を与えることで、研究開発への投資と出願を促進し、また、出願公開によってさらなる技術革新を促すという理解がそれである」、「もっとも、近年、経済学における実証研究の成果が蓄積し、特許権の付与よりも市場先行によるシェア獲得や生産設備の優越の方が研究開発への誘引としては有効であること、特許制度の有効性が低いように見える産業の方がかえって出願が活発であること、そして実は多くの特許権は経済的価値が低いことなどが指摘されており、上述したシナリオのとおり特許制度が機能しているのかどうかについては、今後さらに慎重な検討を要する。しかし、特許制度を廃止する社会実験は現実的ではなく、またその存続は国際条約上の要請でもある。そこで、現状ではさしあたり特許制度があることを前提にしつつ、できるだけその社会的メリットを増大させ、またそれがもたらす社会的コストを節減するための(解釈・立法両面での)工夫を不断に繰り返すしかない」(4頁) 本書の序盤から、「入門」を謳うに相応しくないような重い問題提起である。特許制度が産業の発達(経済の成長)への寄与という目的の通りに機能していれば是(必要)、機能していなければ非(不要)となるが、これは本書の上記の記述における「社会的メリット」と「社会的コスト」を「経済的メリット」と「経済的デメリット」として比較し、いずれが上回るかで判断(前者が上回れば是、後者が上回れば非)できそうである。まず、経済的メリットであるが、これは特許権によって余計に得られた利益であり、職務発明対価請求訴訟において算定される「独占の利益」に相当する。次に、経済的デメリットであるが、裁判所の運営の費用は無視できる程度なので除外し、特許庁の運営の費用(特許特別会計)は特許制度の利用のために支払われた費用に含まれるので除外すると、これは他人の特許権を回避するために余計に支払われた費用、高い独占価格の特許製品を購入するために余計に支払われた費用、特許制度の利用のために支払われた費用である。以上の経済的メリットと経済的デメリットについて各事業者ごとに算定して(これによって各事業者にとっての特許制度の是非が分かる)から全事業者の総計を算定することによって(国にとっての)特許制度の是非を判断することになるが、そのようなことは特許制度を廃止する社会実験と同様に現実的ではないので、結局は、本書の上記の記述の最後の一文の通り、特許制度は是であることを信じて、社会的メリット(経済的メリット)を増大させる工夫と社会的コスト(経済的デメリット)を低減させる工夫を不断に繰り返すことによって、そのことをより確かなものとしていくことになると思われる。 新規性に関して 「29条1項1号の『公然知られた』発明(公知発明)とは、秘密でないものとして公衆に内容が知られうる発明をいう。いずれ秘密でなくなる技術についても、特許不与の必要性・許容性がないため、秘密状態を現に脱した発明だけでなく、脱しうる状態にある発明を含む」(34頁)、「29条1項2号の『公然実施をされた』発明(公用発明)とは、公衆の認識しうる状態で実施された発明をいう。ここでも、公衆に実際に認識されたかどうかは問題ではない」(35頁)、「29条1項3号の『刊行物』とは、公衆への公開目的で複製された情報伝達媒体(文書、図画、CD−ROM等)のことであり、『頒布』とは、不特定者に閲覧可能な状態に置かれることである(実際に閲覧した者がいたことを要しない)」(35頁) 本書の上記の記述における特許法29条1項1号の解釈は、明らかに疑問である。知られ「た」との文言からすると、知ることができる状態にあるだけの場合まで含むことは文言的に困難であるし、本書の上記の記述における同項2号と3号の解釈からも分かる通り、そのような状態は2号(実施)と3号(刊行物の頒布、インターネット上のアップロード)において問題とされているので、「いずれ秘密でなくなる技術についても、特許不与の必要性・許容性がないため」という理由があったとしても、無理に1号に含める必要性はないのである。 進歩性に関して(その1)「本要件の趣旨については、当業者にとって容易な発明は特許権という特別なインセンティブを与えなくても自然に生まれるのでその必要がないし、他方で独占を認めると弊害があるからだと説明されることが多い。しかしこのような説明は、特許制度がなくても自然に生まれる発明とそうでない発明をアプリオリに措定し、特許制度を無から有(発明)を生み出すための装置として捉えている点、および発明のレベルを問わず、その独占が社会的な費用を生じさせることを看過している点で、妥当でない。そうではなく、あらゆる発明は特許制度がなくても遅かれ早かれ生み出されるものであり、特許制度はその創出を一層早めるための加速装置であると捉えるべきである。レベルの低い発明であっても創出を早める社会的必要性はあるが、しかしレベルが低いがゆえに創出されても産業発達に資する程度(便益)が小さく、独占のもたらす弊害(費用)がそれを上回ることになる。進歩性要件の趣旨は、独占権によって誘引し創出を早めても、独占の弊害の方が上回る発明をふるいにかけるという点にある」(37頁) 本書の上記の記述は、進歩性の趣旨について、「入門」を謳うに相応しくないほど凝ったものであり、最初の寸評で取り上げた特許制度の是非と同じような視点で考察している点で興味深いが、ある発明について、特許が付与された場合の社会的メリット(経済的メリット)と社会的コスト(経済的デメリット)のいずれが上回るかでふるいにかけることができれば、確かに理想的である(ただし、それでは「進歩性」というよりは「産業の発達への寄与性」とでもいうべき要件となる)としても、判断の基準時は特許出願時なので、事後的に判断できる特許制度の是非よりもさらに困難な判断となってしまう。当業者にとって容易でない(すなわち、当業者の通常の創作活動の範囲内にない)という進歩性の趣旨は、当業者の通常の創作活動の範囲内にある発明は特許制度がなくても生み出されるし、そのような活動を特許制度によって自由にできなくしてしまうと、かえって産業の発達が阻害される(ことが容易に想像される)からであって、それで特に問題はないと思われる。なお、当業者にとって容易であるか否かは、主として動機付けがあるか否かによって判断されるが、これは無(動機付けなし)から有(発明)を生み出したか否かにほかならないし、特許制度がなければ生み出されないと考えれる発明も多々ある(秘密裏に実施できない発明は模倣されやすいので、そのような発明のうち多くのコストを費やさなければ生み出されない発明は、特許制度がなければ、営利を目的としない大学や公的研究機関からしか生み出されなくなってしまう)ので、本書の上記の記述における「特許制度がなくても自然に生まれる発明とそうでない発明をアプリオリに措定し、特許制度を無から有(発明)を生み出すための装置として捉えている点・・・・で、妥当でない。そうではなく、あらゆる発明は特許制度がなくても遅かれ早かれ生み出されるものであり、特許制度はその創出を一層早めるための加速装置であると捉えるべきである」との指摘は疑問である(加速装置との点は先願主義によって自ずと果てしており、特許制度は無から有を生み出すための装置と捉えるほうが妥当である)。 進歩性に関して(その2)「進歩性判断の人的基準となる『その発明の属する分野における通常の知識を有する者』、つまり当業者とは、審査官等の特定の具体的人間ではなく、当該発明技術分野における通常の知識を有する抽象的な存在である。ここで、その発明の属する技術分野を狭く観念すると、狭い分野のスペシャリストである当業者の知識レベルは高く設定されるので、一般に多くの発明は公知技術と比べて容易となり、進歩性が認められにくくなる。逆に、技術分野を広く観念すると、進歩性が認められやすくなる。このように、進歩性の判断にとって、当業者の設定、つまり技術分野の画定は極めて重要な位置を占めるが、特許法はこの画定方法について何ら規定を置いていない。確かに現代の技術は細分化しているが、他方で、技術の転用可能性に鑑みると技術分野をあまり狭く限定することは好ましくないため、ケースによっては技術分野の画定は困難な作業となる。結局は、このような技術的な観点からだけでなく、進歩性要件の趣旨、すなわちどのような発明について創出を早めるべきかというより広い観点から、さまざまな要因を総合考慮して政策的に決定されることになろう」(39頁) 本書の上記の記述において「その発明の属する技術分野を狭く観念すると、狭い分野のスペシャリストである当業者の知識レベルは高く設定されるので、一般に多くの発明は公知技術と比べて容易となり、進歩性が認められにくくなる。逆に、技術分野を広く観念すると、進歩性が認められやすくなる」とあるが、全く逆である。関連分野を含めて技術分野を狭く観念すると、それだけ引用例や動機付けを探索できる範囲が狭くなるので、それらを発見しにくくなり、関連分野を含めて技術分野を広く観念すると、それだけ引用例や動機付けを探索できる範囲が広くなるので、それらを発見しやすくなることは明らかである。また、「その発明の属する技術分野を狭く観念すると、狭い分野のスペシャリストである当業者の知識レベルは高く設定される」との点も、この次の寸評と同様に首を傾げたくなる。 進歩性に関して(その3)「当業者の観念は、29条2項(進歩性)だけでなく、36条4項1号(発明の開示要件)でも登場するが、両制度の趣旨の相違から、両当業者の内容も微妙に異なり、前者は自ら発明行為に従事する革新型の技術者を、後者は他人の発明を理解することができる追随型の技術者を指す」(39頁・注釈63) 本書の上記の記述のように当業者のレベルを条文によって使い分けることは、田村善之・時井真・酒迎明洋著「プラクティス知的財産法(T)特許法」の書評で述べた通り、大いに疑問である(このような見解は学者に多く見られるが、何故なのだろうか)。 補正に関して 「補正は事件が特許庁に係属している場合、つまり出願から査定または審決の確定までに限りすることができる(17条1項本文)」(126頁) 手続の補正の時期についての基本的な制限である「事件が特許庁に係属している場合」の解釈は意外に難解であるが、補正で最も重要な特許請求の範囲、明細書、図面の補正の時期については別途に制限があるし、命令に応じてする補正は指定期間内という制限があることからすると、「事件が特許庁に係属している場合」にできる補正は特許請求の範囲、明細書、図面の補正以外で自発的にする補正に限られるので、実務上の重要性は高くないと思われる。念のために正確な解釈を試みておくと、特許査定や特許審決を受けた後に特許権の設定の登録に必要な第1〜3年分の特許料を納付しなければ特許出願は却下されるので、特許査定や特許審決を受けた後であっても特許権の設定の登録や特許出願の却下があるまでは事件(特許出願)は特許庁に係属していることになる。また、放棄や取下げはもちろんのこと、不服申立ての対象である却下についても、特許庁への係属を終わらせる行為そのものと解されているので、それらがあれば直ちに事件は特許庁に係属しなくなる。そうすると、「事件が特許庁に係属している場合」とは、「事件が特許庁にとって解決済みでない場合」とでも解され(「事件」は解決すべき案件のことであるし、却下は直ちに特許庁の係属を終わらせるもの、すなわち、特許庁にとって直ちに解決済みの扱いとなるものだからである)、これを特許出願の事件に当てはめると、特許出願が特許庁に係属している場合とは、放棄、取下げ、却下、拒絶査定や拒絶審決の確定、特許権の設定の登録(特許査定や特許審決の確定)のいずれかがあるまでということになる。そうすると、本書の上記の記述においては、放棄、取下げ、却下が欠落しているし、特許査定や特許審決の確定は具体的にいつであるのか分からないので、不正確ないし不親切である。 訂正に関して 「プロダクト・バイ・プロセス・クレームとは、物の発明のクレームに物の製造方法が記載されているものをいう。従来の審査実務では、プロダクト・バイ・プロセス・クレームは、多様なクレーム表現の一つとして一般に許容されていたが、プラバスタチンナトリウム事件最高裁判決により、対象物を構造や特性等で特定することが不可能であるか、およそ実際的でない限り、プロダクト・バイ・プロセス・クレームは明確性要件(36条6項2号)に違反するとされたため、同判決前に登録されたプロダクト・バイ・プロセス・クレームのうち、対象物の特定が不可能でも非実際的でもないものは、明確性要件違反の無効理由を含むこととなった。もっとも、最高裁の補足意見では、無効理由を解消する手段として、訂正審判や訂正請求の活用が示唆されており、特許庁においても、プロダクト・バイ・プロセス・クレームを製法クレームに変更する訂正を認容する審決が出されている。すなわち、当該訂正は、明確性要件に反する記載を明確性要件に適合する記載に訂正するものであるから、『明瞭でない記載の釈明』(126条1項但書3号)に該当し、当該訂正により発明の課題や解決手段に実質的な変更が生じるわけではなく、訂正後のクレームに係る実施行為は、訂正前のクレームに係る実施行為にすべて含まれ、当該訂正により第三者に不測の不利益が生じるおそれはないため、実質上特許請求の範囲を拡張し、または変更する訂正とはいえないとされる」(161頁) 本書の上記の記述によれば、プラバスタチンナトリウム事件の最高裁の判決(平成27年6月5日)によって明確性要件違反の無効理由を有することとなったプロダクト・バイ・プロセス・クレームを製法クレームに変更する訂正を認容する審決が出されているとのことであるが、同様の判決は未だ見られない。このような訂正は、明確性要件違反の無効理由を解消するためとはいえ、本来であれば物自体の発明であるのに物の生産方法の発明への変更を強いる点で特許権者に苛酷である。そのためか、近年の下級審の判決では、構造や特性によって特定することが不可能や非実際的ではないのに生産方法によって特定された物であっても、構造や特性が明確であれば明確性要件に違反しないとの判断がなされるようになり(これについては本書の別の箇所において言及されている)、最高裁の判決との整合性の問題はあるが、そのような訂正を回避できる可能性があることとなった。 特許権の効力に関して(その1)「特許権の効力が及ぶのは、なぜ『業として』の実施行為に限定されているのだろうか。従来の議論においては、特許権の効力が業としての実施行為にのみ及ぶのは、特許法が産業の発達を目的とする制度だからだという説明も見られる。しかし、個人的または家庭内の実施であっても、これを対象とした産業が成り立つ可能性があることは否定できないように思われる。例えば、おいしいスープの作り方という発明で特許を取得し、これを家庭内での使用(実施)のためにライセンスするビジネスというのも考えられなくはない。だとすると、産業の発達という観点からは、むしろ個人的または家庭内の実施についても特許権の効力を及ぼした方が産業の発達に資する場合がありうるようにも思われる。ただ、個人的または家庭内の実施に特許権の効力を及ぼしてしまうと、私的領域における一般的な行為自由に対する大きな制約になってしまう。また、仮に個人的または家庭内の実施に特許権の効力を及ぼしたとしても、そうした閉鎖的な領域における実施行為を特許権者が把握することは困難であり、権利の実効性がない。以上のような観点から、個人的または家庭内の実施、すなわち『業として』でない実施は、特許権の対象から除外されたものと解されよう」(206頁) 「業として」でない実施、すなわち、個人的や家庭内の実施に特許権の効力を及ばせない趣旨は、本書の上記の記述のように複雑に考える必要はなく、そのような実施者まで特許権の侵害を問われて差止請求や損害賠償請求を受けることになると苛酷だから、すなわち、特許権は商標権や著作権とは異なり侵害の有無の判断は非専門家にとって容易ではないので、事業者でない者にまで特許権の侵害を回避する注意義務を課すことは苛酷だからであると考えれば足りる。 特許権の効力に関して(その2)「特許権者は、業として特許発明の実施をする権利を『専有』する(68条本文)。『専有』の意味を定義する規定は特許法に存在しない。しかし、この文言は知的財産法の世界において古くから用いられている。『・・・する権利を専有する』とは、当該権利者のみがある行為を排他的に行えることを意味する。特許法でいうと、特許権者のみが特許発明を排他的に実施できることになる。したがって、特許権というのは、特許権者に無断で業として特許発明を実施する他人に対して、当該実施を禁止できる権利だとういうことになる(排他権説)。もっとも、伝統的には専用権説vs.排他権説という論争が展開されてきた。たしかに、『特許権者は、業として特許発明の実施をする権利を専有する』という68条本文の文言を素直に読めば、特許権者というのは自ら特許発明を実施することが法的に保障されているようにも読める。これに従うと、特許権というのは、特許権者が特許発明を実施できる立場を保障した権利だという理解(専用権説)が、同条の文言になじむとの考えもあり得よう。しかし、いずれの見解に立っても、自己の特許発明を実施すると常に他人の特許発明を実施することになってしまうような場合(利用関係)に関しては、たとえ特許権を有しているとしても、当該特許発明を実施することが保障されるわけではないという結論で一致している。かねてから、上記の論争自体に実益がないといわれているのはそのためである。結局のところ、特許権というのは、特許発明を実施することができる権利ではなく、単に、特許権者に無断で業として特許発明の実施を行う他人に対して当該実施を禁止できる権利にすぎないと理解するのが妥当であろう」(222頁) 本書の上記の記述によれば、特許権の本質的な効力は排他権であるということであるが、特許法の他の体系書の例に漏れず、独占権(専用権)か排他権(禁止権)かの二元論で停止している点はやはり残念である。ところで、排他権であるとしても、本書の上記の記述における「特許権者に無断で業として特許発明の実施を行う他人に対して当該実施を禁止できる権利」との定義には疑問を感じる。無断で実施する者であっても正当な権原を有すれば実施を禁止できないからである(そうすると、正しくは「正当な権原なく特許発明の実施を行う他人に対して当該実施を禁止できる権利」とすべきである)。もっとも、本書では別の箇所において、正当な権原に当たるものは相手方の抗弁として扱っているので、それを考慮すれば誤りではないが、そのような解説の仕方は適切でないように思う。 専用実施権に関して(その1)「専用実施権者は、特許権者の承諾を得て、専用実施権に質権を設定し、他者に通常実施権(サブライセンス)を許諾することができる(77条4項)。特許権者の承諾を要するとされたのは、特許権者は、誰が実施権者となるかについて重大な利害関係を有しているからである」(247頁)、「差止請求は、特許発明の独占的な実施の維持・回復を目的とするものであるため、特許権者が専用実施権の設定により発明の実施権原を失った場合には、差止請求を認める必要はないとする見解も存在する。しかし、最高裁は、特許権者による差止請求を認めている。@条文上、専用実施権設定後の特許権者による差止請求権の行使が制限されると解すべき根拠はないこと、A専用実施権の設定契約において専用実施権者の売上げに基づいて実施料の額が決まるような場合、特許権者は、実施料収入を確保するため、特許権の侵害を除去すべき現実的な利益があること、BAの場合でなくとも、特許権者としては、将来、専用実施権が消滅し、自己実施する必要が生じた場合に備えて、予め侵害行為を排除しておく利益を有することを理由とする。最高裁の指摘するとおり、特許権者は専用実施権設定後も差止請求をすることに固有の利益を有することに加えて、特許権者の差止請求を認めても、専用実施権者の法的な利益が害されることはないから、専用実施権設定後の特許権者も侵害者に対して差止請求をなしうると解するのが妥当であろう」(249頁) 専用実施権者が他人に質権を設定したり通常実施権を許諾するためには特許権者の承諾を要するとされた理由、さらには、専用実施権を設定した特許権者にも差止請求権を認めるべき理由については、本書の上記の記述のような説明ではなく、特許権の本質的な効力の1つである支配権によって端的に説明できる。特許権者の承諾なく質権が実行されて専用実施権が第三者に移転したり、特許権者の承諾なく通常実施権が許諾されたり、専用実施権者が侵害者を放置したりすると、専用実施権者のみに特許発明を実施させるという特許権者の意思(支配権の行使)が侵されるからなのである。 専用実施権に関して(その2)「専用実施権設定後の特許権者は、自己実施も第三者への実施許諾もできないため、特許権侵害による直接的な損害(102条が想定する損害)は生じない。ゆえに、損害賠償請求は、原則として否定されることになる。ただし、第三者の侵害行為により専用実施権者の実施品の売上げが減少し、それに伴い、特許権者の実施料収入が減少するという事情がある場合には、特許権者は、民法709条に基づき、減少した実施料相当額の損害賠償を請求しうるであろう」(249頁) 本書の上記の記述のただし書の一文は、専用実施権者が特許法102条1項や2項を適用して損害賠償請求をした場合であって特許権者に支払うはずであった実施料を損害額から控除した場合に限って妥当なものと考えられる。ところで、専用実施権者が同条3項を適用して実施料相当額の損害賠償請求をする場合については、専用実施権者は特許権者の承諾なく通常実施権を許諾することはできないので、特許権者の承諾なくしてはできないようにも思える。そして、特許権者の承諾を得て通常実施権を許諾するということは特許権者と共同で通常実施権を許諾することに等しいので、専用実施権者が特許権者の承諾を得て実施料相当額の損害賠償請求をする場合は特許権者も同条3項に基づく実施料相当額の損害賠償請求をできる(各人が請求できる実施料相当額は按分した額となる)と考えられる(これは、専用実施権を侵害すると特許権の効力の1つである支配権も侵害することを表している)。そうすると、本書の上記の記述の最初の一文は誤りということになる。なお、田村善之・時井真・酒迎明洋著「プラクティス知的財産法(T)特許法」の書評において、特許権者と専用実施権者が存在する場合の損害賠償請求についてまとめてある。 間接侵害に関して 「間接侵害と直接侵害の関係について、最近では折衷説が多数であるが、従属説的解釈で一貫すべきとする見解も有力である。これにしたがうと、家庭内実施を行う直接行為者への物の供給等について、特許権者が権利行使を望むならば、そうした物自体について特許を取得すべきであり、それが可能な限りで特許権による保護を認めれば十分だとされるのである。そのように解すると、例えば、もっぱら家庭内で使用する物(例:家庭用マッサージ器、携帯ゲーム機)について特許が付与されている場合、それを完成品として販売すると特許権侵害になるが、購入者が組み立てて完成させることができる部品をセット販売または分売すれば、たとえその部品が専用品にあたるとしても、購入者による直接侵害が成立しない以上、間接侵害が成立しないことになろう。いずれにしても、間接侵害の成立要件は現行法の文言からは明らかでない。第三者の予測可能性を確保する観点からすれば、101条について立法的対応が検討されて然るべきであるように思われる」(316頁) 間接侵害の成否の判断方法については、中山信弘著「特許法」第4版の書評において述べたとおり明確であり、現状でも第三者の予測可能性に欠けることは全くない。 特許権の消尽に関して(その1)「特許製品が譲渡されても、その譲渡が特許権者等(特許権者または特許権者から許諾を受けた実施権者)によってなされたのでない限り、特許権は消尽しない。消尽論は、特許権者に多重的な利得の機会を与える必要はないという観点から正当化されるところ、譲渡が特許権者等によって行われたのでない限り特許権者に利得の機会があったとはいえないからである」、「また、特許権者から許諾を受けた実施権者ではなく法定実施権者(例:先使用権者)によって譲渡された場合も、特許権者に利得の機会があったとはいえないため、特許権は消尽しない」(332頁)、「先使用権者によって製造販売された物を取得した者は、当該物を使用、譲渡等、輸出、輸入、譲渡等申出することについて、先使用権者が有する通常実施権を援用できると解される。先使用権者によって製造販売された物を取得した者が、これを通常の用法にしたがって使用、収益、処分することは、先使用権を認める以上想定されていることである。もしそうした行為が特許権侵害にあたるとすれば、先使用権者から当該物を取得する者はいなくなり、先使用権者が発明実施事業を行うことが事実上困難になってしまい、先使用権を認めた趣旨が没却されかねないからである」(367頁)、「なお、特許権の消尽を理由とする考えもありうるが、先使用権者による譲渡がなされた場合は、特許権者等(特許権者または特許権者から許諾を受けた実施権者)による譲渡がないため、特許権は消尽しないと考えられる」(367頁・注釈167) 特許権の消尽論を定立させた平成9年7月1日の自動車の車輪(BBS)事件の最高裁の判決は、特許権者や特許権者から許諾を受けた実施権者が譲渡した特許製品には特許権の効力は及ばない(特許権は消尽する)と判示したが、本書の上記の記述のように、特許権者から許諾を受けていない実施権者である法定実施権者が譲渡した特許製品には特許権の効力は及ぶ(特許権は消尽しない)ことまでを(反対解釈として)同判決は認めたと解することには疑問がある。法定実施権には有償(特許権者に相当の対価を支払わねばならない)のものもあるので、有償の法定実施権者による譲渡であれば特許権者の利得の機会はあったことになるし、無償の法定実施権による譲渡については、特許権者に落ち度があるために(衡平の観点から)有償による補償はされなかったことからすると、そもそも特許権者に利得の機会を与える必要はないのである。また、同判決は特許権の消尽論を肯定すべき理由として特許権者の利得の機会の有無のほかに特許製品の円滑な流通の確保を挙げているが、法定実施権者による譲渡も適法な譲渡である以上、円滑な流通を確保してあげなければ、本書の上記の記述の後半部分(前半部分とは文脈が異なる)で述べられているように、法定実施権を認めた趣旨が没却されかねないのである(同部分は、特許権者に利得の機会がない点で前半部分と同じでありながら法定実施権の援用による自由な流通を認めており、前半部分と矛盾している)。 特許権の消尽に関して(その2)「消尽論の効果は『生産』には及ばないから、加工や部材交換が『生産』行為にあたると評価できるような場合には、その生産行為自体に特許権の効力が及ぶことになるし、また、そのように生産された物は、特許権者等によって譲渡された特許製品そのものではないため、その取得者がこれを使用、譲渡等する行為にも特許権は及ぶと解される。ただ、最高裁判決においては、『生産』ではなく『製造』という文言が用いられている。特許法上の『生産』にあたるかどうかは、発明の構成要件を充足しない物を素材として発明の構成要件のすべてを充足する物を新たに作り出す行為といえるかどうかであるのに対して、消尽論において問題となるのは、特許権者等によって譲渡された特許製品が加工や部材交換によっても同一性を維持しているかどうかであり、当該加工や部材交換が特許法上の生産にあたるとは限らないからである。したがって、特許製品の加工や部材交換が特許法上の生産に該当しないとしても、これによって『特許製品が新たに製造された』と評価できる場合があることになる。例えば、使い捨て注射器の使用後、これを消毒して再生することが、たとえ特許法上の生産にあたらないとしても、これによって特許権者等によって譲渡された特許製品と同一性を欠く特許製品が新たに製造されたと評価される可能性がある。この場合、加工や部材交換といった行為それ自体は特許権侵害にならないとしても、加工や部材交換が施された物の使用、譲渡等は特許権侵害にあたることになる」(337頁) 平成19年11月8日の液体収納容器事件の最高裁の判決が特許法上の用語である「生産」ではなく「製造」を用いた理由は、単に特許製品が無生物であるからにすぎないと考えられる(生物を対象としない実用新案法においても「生産」ではなく「製造」を用いている)。また、本書の上記の記述は消尽アプローチと思われるが、仮に同判決が消尽アプローチを採用したのであれば、「製造」という「生産」と紛らわしい文言(生産アプローチを採用したと誤解されかねない)ではなく「加工や部材の交換により当初の特許製品と同一性を欠く新たな特許製品に変化した」の如く「変化」の類を用いたはずであるし、間接侵害の成否への影響を考慮すると生産アプローチの採用が不可欠なこと(これについては「プラクティス知的財産法(T)特許法」の書評において詳述している)からしても、本書の上記の記述における理由は受け容れ難い。なお、この問題の論点は、本書の上記の記述にある通り「特許権者等によって譲渡された特許製品が加工や部材交換によっても同一性を維持しているかどうか」であり、そもそも「生産」に当たるか否かではない。同一性の範囲内であれば「生産」ではなく(ゆえに、特許権の効力は及ばない)、同一性の範囲外であれば「生産」である(ゆえに、特許権の効力は及ぶ)と説明することが生産アプローチであり、同一性の範囲内であれば消尽の範囲内であり(ゆえに、特許権の効力は及ばない)、同一性の範囲外であれば消尽の範囲外である(ゆえに、特許権の効力は及ぶ)と説明することが消尽アプローチであり、両アプローチの違いは同じ結論に対する説明(法的な構成)の違いに過ぎないのである(ただし、上述したように間接侵害の成否への影響は異なっている)。 先使用権に関して 「特許出願した者が特許権という排他権を取得するのに対して、特許出願しなかった先使用者が発明を実施することも許されず、事業の中止さえ強いられかねないというのは、両者の利益調整の観点からすれば、先使用者にとって過大な不利益と考えられる(『公平説』的説明)。また、発明実施事業のため、すでに多額の費用を投じた設備等(例:大規模工場)が敷設されたという場合、もしそれが活用されなかったり、除却されてしまったりすれば、単に先使用者にとっての不利益にとどまらず、それは社会的な損失だとも考えられる(『国家経済説』的説明)。そこで、特許出願に係る発明の内容を知らないで自らその発明をし、または特許出願に係る発明の内容を知らないで自らその発明をした者から知得して、特許出願の際、現に日本国内においてその発明の実施事業またはその準備をしている者は、法定の通常実施権を取得し、一定の範囲内において当該特許発明を無償で実施できる(79条)。これを『先使用権』という」(359頁) 先使用権の趣旨は、国家経済説のような公益的ないし経済的な理由は全くなくて、専ら公平説(衡平説)によると考えられる。ただ、本書の上記の記述における公平説の説明では、何故に両者の利益調整をすべきなのか今一つ理解できない(単に先使用者が事業の中止を強いられて過大な不利益を被ると苛酷だからというだけでは、特許権の行使によって他人に不利益が生じることは特許制度が当然に予定していることなので不十分である)。そこで、両者の事情について対比すると、特許権者は特許出願をして特許権を取得したが先使用者による実施や準備より遅れて特許出願をした点は劣位であり、逆に先使用者は特許出願より先に実施や準備をした点は優位である。そうすると、先願優位の原則(出願時を基準とした早い遅いで優劣を決めること)に従えば、先使用者を保護しなければ衡平に反することになるので、先使用者に先使用権を与えることにしたと考えられるのである。 中用権に関して 「ダブルパテントの場合における後願に係る原特許権者に中用権が認められるかどうかという点をめぐっては争いがある。80条1項1号の文言にしたがえば、ダブルパテントの場合において、後願に係る特許を無効とされた原特許権者が、特許無効審判の請求登録の前に、当該特許に無効理由があることを知らないで、発明実施事業またはその準備をしている場合は、中用権を取得するように読める。たしかに、中用権の趣旨を、審査の過誤に起因して原特許権者によって敷設された設備等の除却等に伴う社会的損失を回避するものと理解すれば、現行法の解釈としては、そうした解釈も成り立ちうるように思われる。しかし、これを否定する見解も有力である。この見解は、特許権というものが排他権にすぎない以上、ダブルパテント状態にある後願特許権者は、先願特許権者の許諾がない限り特許発明を実施できないのであるから、そのような立場で発明実施事業またはその準備をしていたとしても保護の必要性は低く、逆に、後願に係る特許が無効とされればこの者は中用権を取得し、先願特許権者の許諾なくしてこれを実施できるようになるというのはバランスを欠くという考えに基づく。いずれにしても、この点は立法による明確化が必要なように思われる」(370頁) 中用権については、実例(判例)が見当たらないことからも分かる通り、実務上の重要性はかなり低い(法定実施権には種々あるが、実務上は先使用権の一強状態である)のであるが、条文からは中用権を取得する原特許権者とは誰なのか分かりずらいので、本書の上記の記述にあるような争いが生じているものと思われる。しかし、ダブルパテントの場合は、後願の特許権のみが適法に残存する事態は生じ得ない(先願の特許権が何らかの無効理由によって無効となったとしても後願の特許権がダブルパテントの無効理由を有することは変わらない)ことからすると、そもそも先願の原特許権者に中用権を与える必要性はないはずである(中用権は有償なので、仮に中用権と特許無効の抗弁のいずれかを選択できるのであれば後者を選択するはずである)。また、中用権の趣旨は、本書の上記の記述にあるようなものではなく、実用新案権同士や実用新案権と特許権のダブルパテントの場合に原実用新案権者には中用権は発生しない(特許法にも実用新案法にも原実用新案権者の規定はない)ことからすると、審査や審判においてダブルパテントの拒絶理由を発見できなかった特許庁の免責のため(善意すなわち特許査定や特許審決を受けたことによって拒絶理由がないことを信じた原特許権者からダブルパテントの拒絶理由を発見できなかった責任を問われることを防ぐため)であることは明らかである。そうすると、中用権を与える必要性は専ら後願の原特許権者にあるということなるので、立法による明確化が必要であるとは思われない。なお、後願の原特許権者に中用権が与えられると何ら落ち度のない先願の特許権者にとっては苛酷なので、先願の特許権者には中用権者から相当の対価を受ける権利が与えられることになっている(すなわち、中用権は先使用権と異なり有償の法定実施権である)が、この点からも中用権は専ら後願の原特許権者を対象としたものであることが分かる。 特許発明の技術的範囲に関して 「あるイ号物件に対する特許権の行使が出願経過禁反言によって許されないとされる場合、たとえ当該イ号物件が特許発明の技術的範囲に属するとしても、特許権侵害を理由とする差止請求等は棄却される。そのため、出願経過禁反言は抗弁と位置づけられよう」(375頁)、「出願経過禁反言の位置づけをめぐっては諸説あり、これを特許発明の技術的範囲の問題と捉える見解もありうる。ただ、特許無効審判や審決取消訴訟など、特許の有効性を判断する場面においては、出願経過における意識的除外を理由に特許発明の技術的範囲が限定解釈されることは実務上ないようである」、「そこで本書では、出願経過禁反言を特許発明の技術的範囲の問題ではなく抗弁と位置づけている。なお、出願経過資料は、クレームにおける用語の意義を明確化するための資料としても参酌されるが、これはあくまでクレーム文言の意味内容を明確化する作業にすぎない。これに対して、出願経過禁反言は、そのように明確化されたクレーム文言によればイ号物件が特許発明の技術的範囲に属する場合において、特許権侵害の主張を認めない解釈論である」(375頁・注釈182) 出願経過禁反言(包袋禁反言)の原則を特許発明の技術的範囲への属否の問題と捉えるか特許権の行使の制限の問題と捉えるかについては、いずれも特許権の侵害を免れることに変わりはないので、どちらでも問題ないと思われる(ただ、均等の第5要件からすると、最高裁は前者の立場のようである)。さらに言えば、同原則は補正や訂正によらない主張が参酌された(受け入れられた)ことによって特許を受けたり特許の取消しや無効を回避した場合に限って適用されるという判例の一貫した考えからすると、同原則を適用せずに(拒絶理由や無効理由は解消していないとして)無効の抗弁によって特許権の侵害を免れることも可能なので、無効の抗弁が許されなかった時代ならまだしも、同原則自体が必ずしも必要なものとまでは思われない。ところで、本書の上記の記述における「特許無効審判や審決取消訴訟など、特許の有効性を判断する場面においては、出願経過における意識的除外を理由に特許発明の技術的範囲が限定解釈されることは実務上ないようである」との指摘については、確かに無効理由の有無を判断する場面において同原則を適用した判例は見当たらない(補正や訂正によらない主張は参考にはされたとしても参酌まではされていない)ことからすると、同原則は専ら(補正や訂正によらない主張について補正や訂正と同様の効果を信じた)第三者を保護する(特許権の侵害を免れさせる)ためのものとなり、そうであれば、尚のこと、同原則は撤廃して(そもそも、特許法上の根拠がない)補正や訂正によらない主張は第三者としても参酌しないことを徹底したほうがよいように思う。 以上、気になった記述を抜粋して寸評を述べたが、最後に総評を述べる。本書は、あえて「入門」と謳っているので、初学者を主な読者として想定し、内容の難易度を落とすといった配慮がなされているものと予想していたが、そのようなことは全くなく、その点で特許法の他の体系書と何ら変わりはなかった。本書の序文に「入門書という体裁を取りながら、本書が私たちの研究・教育生活における中間報告でもある」とあるが、そうならば何故に「入門」を謳ったのか不思議であり、残念ながら初学者向けとは言えない。逆に言えば、初学者以外にとっては読み応えがあり(寸評からも分かる通り、考えさせられることも多い)、「入門」というタイトルに惑わされて購入を躊躇う必要はないと思う。今後も「入門」を謳い続けるのか、また、共著の形を取り続けるのかは分からないが、改訂は重ねていって欲しいと思う。
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